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今年もまた紅葉の里へ!! [仕事の合間に]

前回の記事以降、忙しくあちらこちらを飛び回る日々が続いている私、前回の松本に引き続き、次に向かったのは、甲府。
前回の信州の旅では、うまい具合に紅葉全開の風景を楽しむことができたのですが、それから3日後、前回通りががかりに見た様子から、次に訪れる時は見頃となっていることを確信した、松本より標高が200m低いこの甲州でも、またその満開風景を楽しむことができるのではと考え出発したのですが、

そして、笹子トンネルを抜けたところで、1時間半ほどの時間の余裕が出来たので、いつもの釈迦堂PAで小休止、そこから甲府盆地を囲む山々の方へと目をやると、

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曇り空なれど、水平線近くには朝日の緋に染まる雲がたなびき見えています。
これなら雨が降ることはない、昼になれば、久々に秋の青空が姿を見せるのではと安堵して、反対車線のバス停付近に眼をやると........

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バス停を取り囲むように立つ、綺麗な秋色の衣装を着た木々たちの姿が目に入って来たのでした。

昨年もほぼ同じ時期にこの場所を訪れたのですけど、今年は昨年に比べ冷え込みの到来が早かったせいか、その装いの鮮やかさも、なお一層際立っているようにも感じられます。

これなら、この地でも秋の気分を十二分に満喫できる。
今回の旅も、その忙しさはいつもと変わらないけど、長逗留となる予定のこの地、その間に時間を見つけちょっと散策をしてみようと決め、今日の仕事場に向かうことにしたのです。


しかし、初日は案の定..........

次から次へと襲いかかってくる案件の波、とてもそんな余裕はありはしない。
ということで、その日は、早々に引き揚げ宿にて安眠を貪ることにしたのですが、おかげさまで翌朝は、早くに目が覚めたこともあって、ならばと宿のそばにある古墳の丘陵へと散歩に出掛けることにしたのです。

そして出会ったのが、

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昨年にも増して、見事な秋の風景。

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銀杏の葉の染まり具合もこれまた十分です。

これならば、まだこの地での逗留生活も始まったばかり。
ならば、必ず仕事の合間もできるはずと、その時を楽しみにして待つことその翌々日。


ポッカリとかなりの時間が空き、そこで、いざ向かったのは、小さな古びたお寺のお堂があるこんな場所でした。

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気付いてみれば1か月が過ぎてました。 [閑話休題]

突然の家族の入院
無事退院できた思いきや、今度は会社の方、突如舞い込んできた予定外の大仕事に、全員、いつも2~3倍程度の仕事を熟さなければならないほど大忙し。

おかげで、ゆっくりと時間をとることもできないまま、気付いてみれば1か月以上もブログの更新が途絶えてしまうことになってしまいました。

しかし、忙しい日々はまだまだ続くし、このまま過ごせばばいつ更新できるかわからない、この辺で近況報告も兼ね、なにかしなければということで、今回は忙しい日々訪れた場所で見た秋の風景、そうしたお話で久々の更新をすることにしたいと思います。


そこで、まず最初の風景は、

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山梨県中央市から望む夕焼けに染まる八ヶ岳。

今年の秋は、あまりの忙しさに、ちょっと仕事の合間にとその土地の風景や風土を楽しむ余裕も失っていたのですが、この日は、まもなく仕事も一段落というところで、西の方角を望んでみたところ、夜の明かりがともり始めた裾野の街並みのバックに、夕日に染まった八ヶ岳の山容が目に入り、その姿が、いつもに増して美しかったことから、思わずシャッターを押し収めてしまったもの。

いつも見慣れた風景でも、夕暮れ時となるとまた違った趣があること、このことで改めて気付かされることになりました。
そして、それ以後は、日中は忙しくて仕事に没頭せざる負えないのなら、その日の終わり仕事が一段落した時に、その地の夕暮れ時の風景を眺めながら、明日の鋭気を養うことにしたのです。


そうして、次に出会った夕暮れ時癒しの風景は、

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東京は江東区から望む夕暮れ時の東京湾。

大井町方面を映したものですが、この方角、空気の澄んだ朝方は、どこか冷たい大都市のバックに、遥か彼方に丹沢連山がこんな風に望める場所なのです。

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それにしても、夕暮れ時の海の上に広がる空、その広さがさらに際立って見えるものですね。

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さて、次に向かったのは長野県の松本市。
こちらは季節柄、紅葉を期待して出かけたのですけど、今回は仕事先に着けばそれを楽しむ時間もなさそうだしということで、この日は、いつもより時間を繰り上げて出発したのですが。

その甲斐あってか、出会ったのはこの風景。

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なるほど早起きは三文の得なんて。

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甲府から諏訪湖へと標高が上がって行くうちに、木々の色が次第に秋色に色濃く染まって行く様子を楽しみながら目的地へと、新たな元気を得ながら向かうことが出来ました。

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そして、数日松本に滞在、帰りは何とか日没の時刻までに諏訪湖へとたどり着くことが出来たので、立ち寄ってみると、

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赤く染まった木々の下に広がる湖面。
いつも観光地でありながながら、湖周辺の風景は今一つパットしないと感じる諏訪湖も、この季節は一見の価値があるのではとういう感じでした。

しかし、この秋の絶景も束の間。
ここでちょっと小休止をしていると、あっという間に夜の帳が降りて来て、この湖の印象を塗り替えて行きます。

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夕焼けと、その下に点々と見える街の灯に囲まれた黒ずんだ湖面。

古代縄文の神を宿すこの諏訪の地、あたりを包み込んで行く夜の帳は、この山間の湖に、その神が跋扈する神秘的な空気を醸し出しているようにも思えます。、



まだまだ続く、目一杯仕事のスケジュール。

いつもの音楽記事は、なかなか書けそうにもないけど、秋の夕暮れ時のなにかもの寂しく感傷的な空気。
今度は、どんな空気と巡り合えるのか、その楽しみをバネにして、前向きにこの局面を乗り切って行こうと思っています。

そしてまた、その巡り合いで得た様々な空気、また記事にできればと思っています。

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秋の空気に映えるピアノの音;kenny Drew・Impressions,Expressions [音源発掘]

10月になりましたね。

今年の秋到来は、雨降り続きで鬱陶しい日が続く毎日で、心の内まで曇りがちにとなってしまっている方も多いのではと思いますが、そうはいえ、夜になるとどこからともなく聞こえてくる虫の音にホット一息、そこに確かな秋の訪れを感じられるようになった今日この頃。

その秋という季節、”芸術の秋”とは昔の人はよく言ったもので、何故か日常当たり前のように聴いている音楽も、一際その冴えが耳の中に響き渡り、その風味が増して聴こえてくるもの。

私もこの秋はログ友さんの影響か、ここのところ尺八の音が妙に恋しくなってしまい、この季節の風の上を静かに飛翔する藤原道山の尺八の演奏を聴きながら、日本の秋の詩情を体全体に感じ味わう機会が多くなっているのですが、それに加えてよく聴いているのが、今回ご紹介する秋の旅情を掻き立てる、この2作品。

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kenny Drewの欧州3部作と言われる作品の中の、1988年制作の第1作目の作品、”impressions(邦題;パリ北駅着、印象)”と

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1990年制作の第3作目の作品、”Expressions(邦題;旅の終わりに)”。


旅の空の下、淡い哀愁の漂う女性の姿が印象的なジャケットを持つこれらの作品、共に今年7月に亡くなった日本人名ジャズ・プロデュサーの木全信氏の手によるもの。

このkenny DrewをはじめArt Blakey、Benny Golson、Chet Baker、European Jazz Trioなど、日本では最新の演奏を紹介されることの少なかった数々の名演奏家の現在を、「寛げるジャズ」「気楽に触れ合えるジャズ」そのうえで「アルバムのどこかに、聴く人の心に触れる緊張感をのこせれば・・・」という心情の下、多くの作品を制作してきた木全氏、中でもkenny Drewの今を捉えた作品群は、当時母国アメリカからヨーロッパに渡り、日本では忘れられかけていたこの名ピアニストの存在を広く世に知らしめ、大きな反響を呼んでいたことが思い出されます。

そして、そうした木全氏プロデュースのDrew作品の中でも今回選んだこの2作品は、1993年に64歳で亡くなったkenny Drew、その最晩年の演奏を捉えたもので、生涯の相棒となったベース奏者のNiels-Henning Ørsted Pedersen との互いにすべてを知りつくした二人の円熟の境地が生む緊密なサウンドが堪能できる、Drewの晩年の傑作と言われているものなのです。


それでは、円熟の境地が綴る、秋の空気をより一層引き立てるその音楽、前口上はこのくらいにして、この辺で1曲、お聴きいただくことにいたしましょう。










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若き日の......... 熱きあのプレイをもう一度!!!:Santana Live!!! '69 本日の作品;vol.133 [デジタル化格闘記]

早、9月も半ばを過ぎ、秋の色も日々濃くなって行く今日この頃。

しかし、今年の9月、8月の終わりからの日本近海での台風の大量発生で、荒れ模様の日々。
中には10号のように北に向かわず南に向かい停滞、一旦は勢力が衰えたものの、南の海で再発達、さらに勢力を増してUターン、観測史上初の東北地方上陸などという前代未聞の動きをする奴まで現れたりして。

おかげさまで、外での仕事をすることの多い私、嵐が来たのでは敵わない、四六時中、天気予報と向かい合い、予定調整作業に大わらわの大忙しさの毎日で、記事をUpする間も取れなくなってしまう始末。

とかなんとか言っても、そのバタバタもようやく峠を越え、この連休は、やっとのことでの一休み。

老体には堪える神経をすり減らすこと連続で、疲れ切ってしまった体もこの3連休でようやく回復したところ。

そこで、今日は3週間以上を更新が滞ってしまっていた我がブログ、やっとのことで筆をとることにいたしました。


今回のテーマは、そのドタバタ日々、なんとも気まぐれな天気模様にイライラを募らせながらも、前向きに進もうよとその景気づけに聴いていた、この音楽から思いたった、そんなサウンドをご紹介することにしたいと思います。



まず、お聴きいただいたのは、今年4月に発表された、ラテン・ロックの元祖、Santanaの最新作”SANTANA Ⅳ”より、”Anywhere You Want To Go”です。

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ところで、1969年レコード・デビューしたSantana、その新作のタイトルが4番目のアルバムを示す”SANTANA Ⅳ”とは、ちょっと不思議だと思いませんか。

事実Santana、これまで23枚の作品を発表していて、本作が通算24枚目の作品。

24枚目だから前の20をとってⅣなんでしょ、なんていう向きもありやにしれませんが、答えはそんな短絡的なものではなく、実はこの作品、Santana 1971年の3枚目の作品”Santana III” 時に在籍した初期のメンバーによる45年振りの再会作品で、そのことからⅣと名付けられた作品なのです。

その参加メンバーは、わずか17歳の時”Santana III”でデビュー、御大のCarlos Santanaと白熱のギター・バトルを繰り広げ聴かせてくれた、現JourneyのリーダーであるNeal Schonをはじめ、Schonと共にJourneyを立ち上げ、その後は、Ringo Starr のバンドへの参加で知られるキーボードのGregg Rolie、そして日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、現在もプレヤー、コンポーザーとして、ジャズ・フュージョン系シーンでの活動で知られるドラムのMichael Shrieve、Santanaをラテン・ロックとして印象付け、現在もそのヴィヴィッドなプレイで注目され続けるパーカションのMichael Carabelloなど、初期Santanaファンには、その彼らの生み出すサウンド、その名を聞いただけで期待が大きく膨らんでしまう人達なのです。

そして、さらなるⅣの意味。

「再会以外にもまだ何かあるの?」と思われるしれませんが、そこには、”Santana III”以後に起きたメンバーの大幅なチェンジ、そこにもう一つのこの名付けの因があるように思うのです。

それは、メンバー間の音楽を巡っての確執。

この、”Santana III”のレコーディング時期、それと前後してリーダーのCarlos Santanaは、かねてより彼が敬愛、影響を受けてきたJimi Hendrix、その生前に彼とプレーしたアーティストであるドラマーでヴォーカリストのBuddy MilesやギタリストのJohn McLaughlin等とレコーディングを行っているのですが、その中でMcLaughlinから、60年代にジャズに大きな変革をもたらした、John Coltraneの存在を教えられ、その後のその影響か、それまでの彼の音楽とは異なったサウンドに音楽そのものが大きく変化しているのです。

事実、、”Santana III”の後に発表された4作目の作品”Caravanserai”は、それまでの叙情的かつ解放感に満ちた情熱的なサウンドから、内省的幻想感を感じるジャズ・フュージョン的要素の強いサウンドに大きく変化しており、さらには、メンバー・クレジットに新旧メンバーの名前が見えることから、この、”Caravanserai”のレコーディング途中に、Carlos と各メンバーとの音楽路線における確執は頂点に達し、バンドは空中分解してしまった様子が読み取れるように思うのです。

90年頃になってCarlosも、インタビューに答えて「なんであの時は、もっと皆に優しく接することができなかったのだろう。」と述懐の弁を語っていましたが ようやくそうした思いが各メンバーにも伝わり45年振りのレコーディングなった、このⅣには、彼等にとってそうした思い入れが実現したという重い意味があるように思えるのです。


さて、新作の話が先攻してしまいましたが、本日取り上げようと思っている作品は、この新作ではなく.......

こちらの作品!!

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Santanaがレコード・デビューした年の、貴重なLive音源収めた”SANTANA-LIVE”。
”SANTANA Ⅳ”を聴いていたら、デビューしたばかりのSantanaが聴きたくなり、そう言えば音質はかなり悪いのですが、その初期の音源を収めたアナログ盤があったこと思いだし、早速、久々のリマスター・デジタル化作業を行ったものが今回紹介するその音源。

正規に発表されたアルバムではなく、今は手に入れるのは難しくなっているもののようなのですけど、正規のアルバムには収録されていない曲が収録されているその作品から、貴重な音源をお聴きいただくことにいたしました。

それでは、そのLiveの開演、50年の時空を越えて、そのステージに出かけてみることにいたしましょう。



[あせあせ(飛び散る汗)][あせあせ(飛び散る汗)][ダッシュ(走り出すさま)]













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世界にボサノバを羽ばたかせた名曲;Garota de Ipanema [名曲名演の散歩道]

オリンピックも終わり、終ってみれば日本選手団、メダル獲得数は史上最多の41個の大奮闘。
開会早々の体操男子の団体、金メダル、そして前回は金メダル獲得の叶わなかった、そしてメダル獲得組から消えてしまったシンクロなどもメダル取得組に返り咲き、競歩で初のメダルなど随所随所での日本勢の大健闘が見られた大会でした。

一昔前、東京オリンピック、そ子供ながられを見た私にとって、子供心に感じていた日本選手団の間に漂っていた、勝たねばならぬの悲壮感、それと裏腹に、世界の大舞台で堂々と競い合い、自らの力を出し絞り奮闘していた今の世の日本選手たち、今回はその姿を見ながら、その若い力に、まだまだ日本も捨てたもんじゃない、こうした連中が生まれ出ているではないかと、日本の未来に大きな希望を託す事が出来ました。

さて、そのオリンピックの開催地であったブラジル・リオデジャネイロ、オリンピックの大きな波に呑まれ忘れてしまっていたのですが、考えてみればこの地、音楽の世界では、あのAntônio Carlos Jobimを生み、ボサノバが生み育んだ場所。

そこで、今回久々の名曲は、そのブラジルにちなんで、そのブラジルを代表するアーティストAntônio Carlos Jobim(アントニオ・カーロス・ジョビン)の曲から、世界にボサノバを広める起源ともなったあの名曲を取り上げ、その小道を散歩することにしてみました。

ということでまずはそのお題の名曲、その演奏からお聴きいただくことにいたしましょう。



もうお分かりですね。
曲は、あの有名な、JobimとVinícius da Moraesのペンによるボサノバの名曲”、イパネマの娘(原題:Garota de Ipanema、英題:The Girl from Ipanema)ですよね。

この映像はAstrud GilbertoがバックにStan Getzのカルテットを従えて歌っている大変貴重なもの。
興味深いのは、ちっらと登場するヴィブラフォン奏者の映像。


なにあろうこの方!!、現代のヴィブラフォン奏者の大御所となっている、Gary Burtonの駆け出し時代の姿なのです。


さて、普段何気なしに聴いていたこの”イパネマの娘”、このリオ五輪を機に思い当たっていろいろ調べてみると、結構いろいろなエピソードがあって、これがまた面白い。

そうしたことで、今回はそうしたエピソードを交えながら、あの”Yesterday”に次いで多くのカバー・ヴァージョンを生んだと言われるその演奏に触れて行くことにしたいと思います。


その伝説のエピソード、Wikiよれば、まず見えてくるのが、この歌の誕生譚。

所は、当時、この曲の作曲・作詞コンビのジョビンとモライスをはじめ多くのボサノバのアーティストがたむろし酒を飲むことが多かったという、リオデジャネイロのイパネマ海岸近くにあったバー「ヴェローゾ」でのお話。

このバーに、母親のタバコを買いにしばしば訪れていた一人の美少女。

その彼女にをビールを飲みながら注目していたのが、この作曲・作詞家コンビ、実は共に大変なプレイボーイだったそうなのですが、そうしたことから、二人は、その彼女の“腰の揺れ”を日課として眺め、そのセクシー娘からインスピレーションを得、作ってしまったのがこの”イパネマの娘”だというのです。

その少女の名は、エロイーザ(本名:エロイーザ・エネイダ・メネーゼス・パエズ・ピント、Heloísa Eneida Menezes Paes Pinto (のちに結婚改正をしたため、現在は、エロイーザ・ピニェイロ、Heloísa Pinheiroとして知られているのだそうですが。 )。

当時そのバー近所に住んでいたという彼女、この時の年齢は10代後半、170cmの長身でスタイルが良く、界隈では有名な美少女であったというのですが。

と、ここまで聞くと名曲のインスピレーションを生みだした美少女、となるとこれはさぞかしの女性のはず、ジョビンとモライス、二人のスケベおじさんではなくともその御姿、是非とも拝見したくなってしまいまよね。

そこで、その彼女の写真を探してみたところ、それらしき写真が見つかりました。

それがこの写真!!!

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なるほど、何とも言えない健康美が漂う溌剌した美しさ、
これなら彼らが歌にしてしたくなっていまうのも至極当然のことと、出来ることなれば彼女のお姿、私も一度、直にお拝見してみたくなりました。

しかし、1945年生まれと(一説には1939年生まれ説もあるのですが)言われている彼女、となれば『イパネマの娘』が作られた1962年には17歳ということになりますが、現在もご健在とのことで、女性の年を詮索するものでではありませんけど,となれば今は??歳。


果して、世界魅了したあの歌のモデルの今のお姿を拝するというのはいかがなものか?????......

とも思ったのですが、Wikiにもあったそのお姿、溌剌さ希薄になったものの、どこか年輪を経た風格気品がある、このお姿これ本当なの??

という訳で、別のお姿も見てみなけばと、もの好きにも、さらに探してみたところ.............


ありました!!!!。

2012年、この曲が生まれて50年時の、お姿.が..........!!!!










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フリー・ジャズの旗手からバラードの達人へ;Pharoah Sanders・Welcome To Love [音源発掘]

長期の天気予報では、猛暑の日が続くと言われた今年の夏、その始めは暑い日としのぎやすい日が入り混じってやって来るという気候変化の激しい日々が続いたと思ったら、8月に入り突然様変わりの猛暑の日々の襲来。

前半の寒暖差の激しい日々で一時体調を崩してしまった私、何とか回復したものの今度はこの暑さ、病み上がりの老体の身には少々堪えている昨今なのですが.....。

とか何とか言っても、まだまだ家でじっと養生できるような隠居の身分でもない私。

そこで、朝はこの日の活力の源注入のため、メタルを聴きながら出勤、仕事を終えた退社の時刻には、一日の心と体の疲れ癒すため、潤いのあるジャズに浸りながら帰路に着くことが日課にしているのですが、その中で身に心に大きな癒しを貰っているのが、この作品。

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テナー・サックス奏者 Pharoah Sandersの1990年の作品”Welcome To Love”。

全曲バラード曲で構成されたこの作品、その1曲1曲がピュアでナチュラル感に溢れていることから、心を現実の世界から癒しの世界に導き浄化してくれるように思え、最近よく聴いているもの、ということで今回はこの”Welcome To Love”を取り上げご紹介することにしたいと思います。

しかし、演奏者のPharoah Sandersというアーティスト、名盤紹介書などで取り扱われてことも稀であり、CDショップを訪れても、彼の作品に出会うことは極めて稀であるため、この名前に馴染みがないという方も多いのではと思います。

そのPharoah Sanders、1965年フリー・ジャズの道を歩み始めた、巨匠 John Coltraneのコンボに参加、Coltraneの存命中は、Coltraneが父でSandersがその子供と称され、そして1967年彼の死後は、その後継者として注目されたほどのアーティストなのです。

しかしながらその存在、70年代になってフリー・ジャズが衰退、新しいジャズのスタイルとしてフュージョンが台頭してくると、彼の名をマスコミで目にすることは少なくなり、そこに1965年までColtraneのカルテットのピアニストとして在籍したMcCoy Tynerが”Sahara”をはじめとした意欲的な作品を発表すると、後継者としての座までもが彼の元からMcCoyの元へと、その評価が移ってしまったことで、その影までもが薄くなってしまったようなのです。

そして、それと同時に、レコード・ショップにて彼の作品を見ることも稀となってしまったのですが、事実、当時私も、友人に聴かせてもらった彼の1969年の代表作”Karma”を購入しようと、今のようにネット通販のない時代、レコード店を一つ一つ歩き回り探したのですけど、とうとう見つけることが出来ず、やっとのことで見つけことが出来たのは、それから15年後のことだったという体験があります。

もっともこの”Karma”を探した原因、それは、Pharoahを聴きたかったわけでなく、当時SANTANAに参加していたLeon Thomasのヴォーカルを気に入りそれを聴きたかったためであり、Pharoahのサックスについては、ボソボソと鳴るか、ただひたすら咆哮するばかりで、なんやら得体も知れない味気の片鱗もないものようにしか思えず、その時は、全く評価してはいなかったのです。


ところが、それから5年後のこと、とある日に雑誌のレビューで知った”Welcome To Love”というこの作品、収録曲を見ればバラード曲が並び、その評価の方もかなり高い由。

Pharoahとほぼ同時期に登場し、Coltraneの影響をダイレクトに受けたフリー・ジャズの演奏で、名を馳せていた同じくテナー・サックス奏者のArchie Sheppの70年代後半ステージを見たことのあった私は、Sheppがフリーから転じ、スピリチュアルなスタイルへと変化、その演奏に好感を持っていたことから、さらにSheppより以上にColtraneと身近な場所で共に過ごし、かつ啓蒙を受けたPharoahのこと、もしかすると、Shepp以上の良質な変化を遂げているかもしれないと考え、早速この作品を手に入れ聴くことにしたのです。

果たしてその結果は、
それではその演奏、この辺で、皆さんにもお聴きいただくことにいたしましょう。









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和製ポップスのパイオニア 逝く [音源発掘]

最近続く、私の幼少期から少年時代にかけて、その音楽嗜好に大きな影響を与えた日本のテレビ放送草創期、その時代に登場し活躍した人々の相次ぐ訃報。

5月には、世界の富田こと富田勲さんが亡くなり、私も記事に書いたばかりだというのに、今度は永六輔さん、大橋巨泉さんと...........[右斜め下]
自分がそれなりの年齢となったのだから、それが世の常だとは思いながら、これだけ続くと少しばかり気が滅入ってくるのも事実。

と書くと、永六輔さんは作詞家、大橋巨泉さんは司会者として活躍した人で、あなたの音楽嗜好とどう関係があるのといわれそうですけど..........。

その影響の一つは、”上を向いて歩こう”や”こんにちは赤ちゃん”、”遠くへ行きたい”の作詞者として有名な永六輔さん、この六輔さんと当時コンビを組み、これら曲の作曲をしたのは中村八大さんという元ジャズ・ピアニストの方なのですが、ある日、なんの番組だったか覚えていないですけど、TVで八大さんが”こんにちは赤ちゃん”をピアノで演奏しているを見たことから、ジャズのピアノが気に入ってしまったこと、そのことが後に私がジャズに親しむようになった大元のように思われることがあるのです。

そして大橋巨泉さん、この方はそもそもジャズ評論家だった方で、私も、この人の話の影響でElla FitzgeraldやSarah Vaughanなどのジャズ女性ヴォーカリストの存在を知り聴くようになったのですが、それより以前の
1960年代中頃、TVにて大橋巨泉さんの総合司会で放映されていた、洋楽ポップスのヒット・チャートを紹介していた番組、”ビート・ポップス”が、それまで音楽にさほど興味なかった私に、多くの海外のアーティストとの触れ合いの場を提供し、洋楽の世界に興味を持つきっかけを与えたくれたということがあるのです。

その”ビート・ポップス”という番組、それは今でいう、”ベスト・ヒット・USA”のようなものなのですが、この番組で私は、The Beatlesは基よりThe Rolling Stones、Jimi Hendrix、Creamといった、現在もその偉業を称賛され続けるアーティストに出会うことが出来、六輔さんの活動も合わせ、そのお二人が、私のその後の音楽嗜好の形成に大きなく影響を及ぼしたと思えるのです。




そして、もう一人、永六輔さんの訃報と同じ日に報じられたこの人の訃報。

伊藤エミとユミ 双子の姉妹による女性デュエットのザ・ピーナッツ 。

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そのピーナッツ姉妹の妹さんの方の伊藤ユミさんの訃報。
お姉さんのエミさんは4年前に71歳で既に亡くなっているのですが、このユミさんが逝ってしまったことで、TV画面越しにも、何か混沌した流れの中で、満ち溢れる熱い思いが見えた時代のスターが消えていった、既に時代の流れは大きく変わってしまったのだと、そのことを深く痛感してしまうのです。

そして、あらためて考えさせられてしまったのは、日本における和製ポップスの源を育んで行った彼女らの功績の大きさ、そこで今回は、そのピーナッツの歌を中心に、私が子供の頃に接した日本のポップ・ミュージック草創期を旅旅してみたいと思います。










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ドラム・ロールの音も高らかに;Live at Sweet Basil: Art Blakey and the Jazz Messengers [音源発掘]

さて、今回の記事は再びいつもに戻って、音楽のお話。

前回の記事でも最後のところで、元気が戻って来たところで、ここのところパワーをもらっているシンフォニッック・メタルのサウンドで締めくくりましたが、今回取り上げたのは、メタルでもらったパワーを年相応の乗りにして開花させてくれているジャズ作品。

それが、この音楽!!



曲は、今やジャズのスタンダード・ナンバーとなってしまった名曲、Art Blakey & The Jazz Messengersの”Moanin'”。

この曲発表前のBlakey、元々黒人たちが生み出した20世紀の音楽ジャズ、ところが、1950年代初めには、ウェスト・コートの白人たちの手によるクール・ジャズにその主導権をとられてしまっていたのを、1954年にHorace SilverやClifford Brownと共に旗揚げをして、イースト・コート・ジャズの幕開けを切り開き一躍、世の脚光を浴びるのですが、その後、盟友 Silverと袂を分かってしまたっことから、Silverは着実にその人気を伸ばしていったのに対し、Blakeyは鳴かず飛ばず状態に陥ってしまっていたのです。


そうした中、彼が再起をかけ、新メンバーで立ち上げたThe Jazz Messengersで演奏収録したのがこの曲。

当時世に出るや、ジャズの枠を超えた空前のヒット曲となり、日本では蕎麦屋の出前までもが、出前のそばを肩に乗せて自転車に乗り、口笛でこの曲を歌い走っていたというくらいの現象が起きるほどになっていたのだとか。

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と言っても 今の方には、自転車に乗った蕎麦屋の出前と言われてもピーンとこない方が多いと思いましたので、その姿を見ていただこうと探したのがこの写真。

どうです!! まさに職人芸の世界ですよね。
このスタイルで、”Moanin'”のメロディを口笛で吹きながら走るなんて、実に粋だと思いませんか。

しかし、今これをやったなら、自転車危険運転と見なされで警察屋さんに捕まってしまうのでしょうけど。
なんとも、せちがらい世の中になってしまったものです。


話は横にそれてしまったようですけど、再び”Moanin'”!!......

そうしたジャズにしては空前の大ヒットとなったこの曲、それによってBlakeyは、当時のジャズ・シーンにおいてファンキー・ジャズのパイオニアとして再び大きな脚光を浴びるきっかけを掴むことになり、彼のThe Jazz Messengersは、その後のジャズの歴史に大きな足跡を残して行くことになったです。


さて、この”Moanin'”、初お目見えはあの名盤の誉れ高い、Blue Note 盤の同名タイトル盤の演奏なのですけど、今、ここでご聴いていただいた ”Moanin'”は、また別格の曰れのあるもの。

聴いてお分かりだと思いますが、音楽と共にその音楽に酔いしれ騒ぐ聴衆の声も聞こえてくることでお分かりだと思いますが、ライブ録音であるこの演奏、1958年、フランスはパリの Club Saint-German での様子を捉えたもので、実はこの演奏に限ってのみ、曲のタイトルは”Moanin' With Hazel ”とクレジットされている演奏なのです。


となると、追加されたWith Hazel というは、一体何なのか?
それは、女流ピアニストでシンガーのHazel Scott のこと。

と知ると、Withとあるので、ここに彼女がピアニストして参加共演しているのでは、と思われるかもしれませんが、そうではなく、彼女は単なる観客としてここに居合わせていただけ、それがどうして、”With Hazel”と冠されることになったのかと、次々疑問が湧いてくるのではないかと思います。

そこで、この演奏をよく聴いていただくと、演奏のバックからテンション高く叫び声を上げている女性の声が聞こえてくるのが分かるかと思います。

実は、この声の主が、Hazel Scott 。

音楽に陶酔し客席から奇声を上げ続けるHazel 、バンドの演奏の方も、その熱波を浴びてますます燃え上がり過熱して行く様子が聴き取れます。
そしてそのHazel、最後には興奮の頂点にまで上り詰め、感極まって”Oh Lord have merry!"(おお、主よあわれみを!)と叫び声を上げるのですが、その様子がこの録音に見事にキャッチされ、そこからこのWith Hazel のタイトルがつくことになったのだとか。
それにしても、この曲の作曲者Bobby Timmonsのピアノは圧巻。 

まさしくジャズの醍醐味を堪能させてくれる極めつけの”Moanin'”。
バンドの演奏の熱気が観客に伝わり、その乗りの陶酔感が、さらにバンドを刺激し予期不能のサウンドを呼びよせている。

この演奏で、またジャズの面白さ少しでも知っていいただけたらと思います。


さて、ここまで書いて、今回取り上げる作品はというと.................#%%

長々と、 Club Saint-German の”Moanin'”のことを書いたので、そのライブの模様を収めた”Art Blakey: At Club Saint-German”とくるのではと思われるかもしれませんが、あにはからんや。

今回取り上げるのは、この作品。

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1985年3月24日 ニューヨークにあるジャズ・クラブ”Sweet Basil”でのライブを収めた”Live at Sweet Basil: Art Blakey and the Jazz Messengers” 。

私自身、Jazz Messengersは60年代初頭まで全盛期だ思い、長い間その後の彼らの演奏を聴こうとしなかったのですが、80年代に入り出現した私のお気に入りとなったアーティストの多くが、Jazz Messengers出身者であったことを知り、聴いたのがこの作品。

最近、また聴き直してみたところ、50年代60年代のサウンドとはまた異なったフレッシュさを感じさせてくれるこの作品に惚れ直し、ここで取り上げることにしたのです。

と言うところで、Blakey以外は、すべて新しい顔ぶれによるJazz Messengersの演奏で、名曲”Moanin'”、
まずはその聴き比べから始めることにいたしましょう。





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再び旅の毎日へ -This Is My Way- [仕事の合間に]

先月、突然襲われた急の病によっての入院

退院以来、体力の落込みに戸惑いながら過ごしてきましたが、ここのところやっとのことでその体力も回復、おまけに病気のおかげで2kgほど体重も減ったこともあって、以前より身のこなしも幾分軽くなったよう。

おりしもその全快の時期と合わせやって来たのが、入院以前の計画していた出張のスケジュール。
今回は、それぞれ別の時期の仕事として計画をしていたのですけど、どこでどう間違ったのか、気付いてみれば1週間余り連続して茨城県内を転々と走り回り仕事をする結果となってしまったのです。

その手始めに訪れたのが千葉県と茨城県の間を流れる利根川、その下流に広がるこの穀倉地帯。

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ここは稲敷の田園地帯。
植え付けられたばかりの稲の苗を育む水田が、どこまでも果てしなく地平線の彼方まで広がっています。
そして、その遥か向こうには.........

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茨城県のシンボル、筑波山がその姿を覗かせています。

なにも遮るもののないその風景、空が広さ一段と強く感じられます。
そして、その空を見上げ眺めていると.....

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大空をゆったりと登り上がって行く、国際線の旅客機が....
これは、この場所から30㎞ほど先にある成田国際空港より離陸したばかりの飛行機。

この辺りは成田への離着陸の航空路。
以前私は、羽田の離着陸の航空路の下で仕事をしていたことがあるのですが、しかし、こちらは国際線、よく見てみると、その機体の色彩も色とりどり。

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広大な日本の原風景ともいえる田園地帯、それと世界の町を結ぶ旅客機の群れ、その自然と人工物のコントラストが何とも面白く感じられました。

そして仕事先の場内を歩いてみると、

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不思議な色合いの朝顔が咲いています。

いや~、季節は、もう夏なんですね。



さて、稲敷を後にして、次に向かったのは、いつも行っている土浦のある工場施設。
時間もあるので高速には乗らず、国道をトコトコと行くことにしたのですが、途中道路横の案内板を見ると、右折、霞ヶ浦湖畔との文字。

そういえば、土浦、何度も行っているのに霞ヶ浦の湖畔に行ったことは一度もない。
ならな、ちょっと回り道をしてみるかということで、出会ったのがこの風景。

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湖面の先に聳え立つ筑波山。
この山、これまでいろいろな角度で見てきましたが、このシチュエーションで眺めたのは今回が初めて。
利根川、霞ヶ浦のな水源を背景にした茨城の豊かな恵みの大地、その恵みの大地の中に忽然とそびえる筑波山の姿が、妙に神々しく思えてきます。

そんな湖畔の風景を眺めながら土浦に向かって車を進めて行くと次に見えてきたのは、この先予科練平和記念館 との案内看板。

そういえば、ここは先の大戦の時、純粋に国を思い、大空にその命を散らして行った多くの若鷲を育てた予科練があった場所。

今は、予科練てなに?、という人も多いかと思いますが、正確には、海軍飛行予科練習部という名の通り飛行機操縦の練習所だった所なのですけど、練習といってもただ空を飛べれば良いというものではなく、そこで学ばれたのは、戦闘のための飛行技術。

大正時代に勃発した第一次世界大戦の時、その戦略的重要性が確認された航空機、昭和5年、それを操縦する技術を持つ兵員を育てるため設立されたのが予科練こと、この海軍飛行予科練習部だったのです。
その予科練、当初は、横須賀の追浜に設立されたのですが、その後手狭になったため、昭和14年、日本国内で航空機をいち早く実践配備した霞ヶ浦海軍航空隊のあるこの地に移されて来たのが、この霞ヶ浦の予科練なのです。

その予科練平和記念館前に到着。

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車を駐車場へ進め辺りを見回すと、まずに目に飛び込んできたのが、

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テントハウスの中に収められた、白い戦闘機の機体。
さそっく、車を降りその機体の方に足を進めテントの中に目を移してみると。

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その機体は、零式艦上戦闘機、いわゆる零戦。
零戦といえば緑色の機体を思い浮かべる方が多いかと思いますけど、かねてより地元の方から、予科練平和記念館には白い零戦があると聞いていた私は、もしかするとその機体、第二次世界大戦初期に華々しい戦果を残した、白い塗色のものもあったとわれる二一型ではないかと思って、案内板を見てみると、推察の通り、その機体は二一型。

日本国内に展示されている零戦は、大戦中期に登場した緑色に塗られた五二型が多いように思うのですが、初期の二一型とは.........!!

よくまあそんな初期の機体、復元できる個体があったものだと、さらに案内板を読み進むと、実物大の復元模型とある。
なんだ模型かっ!! と思うもよく考えてみると、大戦中、五二型には古参熟練パイロット、二一型には未熟練パイロットを乗せた零戦で出撃、空戦となったところ、戦果を挙げたのは未熟練パイロットを乗せた二一型零戦で。逆に未帰還であったのは古参パイロット乗せた五二型零戦ばかりであったということが実際にあったという事実。

それは、速力、兵装、機体強度の優っていた五二型より、零戦の本来の強みである空戦時における機体運動性能は、二一型の方が遥かに優っていたということ。

そう考えると、戦いの中、大空に散って行った多くの若鷲たち、その多くの搭乗員を育てたこの予科練で彼らの魂を鎮魂するためには、やはり五二型ではなく二一型でなければならず、たとえ模型であってもその機体をここに収めなければならなかったのではと思えて来るのでした。


そして、この園内には実物大模型がもう一つ。
それは、人間にはあるまじき発想から戦争末期作られた非情の兵器。

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人間魚雷 回天!

先端に1.5tの爆薬を装填し時速55㎞のスピードで敵艦に迫り一発必中を期した有人の潜航艇、一度出撃したら二度と生還できない究極の非人道的兵器。

開戦前までは必死の兵器には消極的だった当時の海軍を、ここまでの狂気に駆り立てたのは一体何だったたのか。

いずれせよ、この回天を見ていると、当時の日本軍人の、戦局打開の号令の元に、なにも憚ることなく命を道具のように扱い散らさせしめることを強いた鬼畜のごとく行いに、悪寒が走るのを覚えながらも、純粋な気持ちで国ためと死地に臨んでいった若き兵士たちのことを思うと、怒りと悲しみが入混じった複雑な思いが胸にこみ上て来てしまうのです。

さて、そんな気持ちに襲われながら、回天の先に足を進めると、そこは陸上自衛隊武器学校。
この奥に、予科練出身者の遺品を保存展示している”雄翔館”という建物があるというので、入口を警備している自衛隊の方に入場の旨を告げて中に入ることにしたのです。

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建物の前に立っている銅像は、山本五十六元帥の像。
この方、一般的には太平洋戦争開戦の時の連合艦隊の司令長官として、真珠湾攻撃の立案、実行したした人物として有名ですが、早い時期から航空機の戦略的重要性を提唱し、航空技術部長の時に日本の航空隊の整備を大いに即した人物としても名高い人なのです。

もし、この山本五十六がいなかったらあの零戦も誕生していなかったもしれない、そうしたことを考えると、この予科練の地に彼の銅像があること、それは至極当然のことなのだと感じてしまいます。

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そして、雄翔館の館内へ。
こちらは、以前私が鹿児島に住んでいた時、何度か訪れた知覧の特攻記念館と比べ幾分こじんまりとした作りではあるのですが、そこに収められた遺書、遺品の数々、それを見てゆくと、知覧を見た時と同様、表向きは勇ましくとも、その裏には大きな悲愴感が漂っていて、今の私たちに戦争の愚かさと平和の尊さ大切さを教えてくれていると、そうした思いがますます深くなって行くのを感じることなったのです。

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小一時間ほど園内を見て回り、そろそろ出発しなければ車に戻ることに。
ところが、走り出そうとしたした時、急に思い出したのが、若き日、この霞ヶ浦の予科練で訓練を受けていたと聞いていた亡き叔父のこと。

予定に全くなかったこの旅、どうやらその叔父が「ここまで来たのなら、俺の若き日を過ごした場所、立ち寄って行け。そして、戦死した仲間の霊を弔って来い。」と私をここまで引っ張って来た、信じられないことだけど長いこと忘れていた叔父の姿、それをこの場所で突然思い出すなんて、不思議なことではあるけれど、やはりこれは亡き叔父の導きだったように思うのです


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叔父の導きの旅で出会った、霞ヶ浦の風景。
ここは観光地ではないけれど、ちょっと目を凝らすと他の土地では見ることできない味わいがあったように思います。

This Is My Way、健康を取り戻したところで、スペインのシンフォニック・メタルの”Dark Moor"のこの曲を聴きながら、また次のチャレンジへの英気を養うことにしたいと思います。









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巨人への道をまっしぐら!!:John Coltrane・Soul Trane [音源発掘]

なにかと、鬱陶しさが気になる今日この頃、先月、急な発病で小学生以来の入院となってしまった私、病状はたいしたこともなく5日間の病院暮らしで済み、病変は取り除き、容態は回復したものの、短いとはいえ病院のベット暮らしで体力の方がかなり落ちてしまったよう.
これまでのように動くとすぐ疲れてしまう状態がしばらく続いていたのですが、先日、退院2週間後の検診受けたところ、病状はほぼ回復のこと。

しかしながら、これからの季節は、何と言っても体力が勝負。

完治宣言を受けたとは言え、まだ体力が完全に戻っていないことから、しばらくはあせえらずじっくり腰を据え体力作りに励まねばと考えたところで、今回の記事で取り上げるアーティストは.........!!

50年代半ばに音楽シーンの表舞台に登場し、67年に亡くなるまでの僅か12年間の間に、新時代のジャズを築き上げ、多くのアーティストを魅了し追随さししめたこの偉大なるミュージシャン。

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そう、今やジャズを語るに欠かすことできないジャズ世界の大巨人、今回は、そのサックス・プレヤーであるJohn Coltraneの作品を取り上げようと思います。

そこで、選んだ作品は........、

普通Coltraneというと、60年代 Impulseレーベルに残されたモード・ジャズの世界創造に邁進した頃の諸作品が話題になることが多いのですが、今回取り上げたのは、それ以前、斬新な奏法を模索しながらも、まだ50年代バップの衣装を身に着けたPrestigeレーベルのColtrane。

1958年制作の”Soul Trane"を選ぶことにしました。

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さて、この作品を選んだのは、1940年代半ばより活動をするも、全く無名の存在だったColtraneが、1955年、Sonny Rollinsの後釜として抜擢、Miles Davis Quintetへの参加によって、彼の名は知られるようになった一方、当時の彼の力量は、Rollinsに到底及ばないものだったことから、「あんな、テナー奏者、早く辞めさせろ!!」との罵声を浴びながらも研鑽を積み、MilesがGil Evansとの活動のため、このQuintetの解散をする直前までには、見違えるほどの成長を遂げ次世代を担うアーティストとしての片鱗を覗かしていた。

そして、さらにはその翌年の1957年、Thelonious MonkのSeptetに参加、そこで、Monkの指導により、その後の彼のスタイル、歩み決定づける、楽器の奏法や音楽に対する、多くの啓示をここで得ることになった、そうした後の世に偉大なる足跡を残したア-ティストの黎明期の息吹を聴きたいと思ったからなのです。

偉大なる二人のアーティストから多くの教示受け迎えた翌1958年 ソロとして活動を始めたColtraneは、、かってのMiles Quintetでの盟友でピアニストのRed Garlandの斡旋でPrestigeレコードと契約、リーダー作品の制作を開始することになるのですけど、ここ挙げたこの作品もそうした巨匠の黎明期の息吹が感じられる1枚。

凡庸なアーティストでしかなかったColtraneが、Miles、Monkという偉大なるジャズの両巨頭から、極めて実践的かつ厳しい教示を受け、自らも研鑽を積み重ね彼独自のスタイルと音楽手法を築き上げていった、そうした意味で、このPrestigeレーベルからのリーダー諸作品は、Davis、Monk、二人の巨頭の手によって見出された天賦の才を、留まることない努力の継続よって開花させつつ、自らの始発点を築き、バップ・ジャズの様式の中に次の時代のサウンドを暗示を提示したようにも考えられ、その作品群にあって、中でもこの”Soul Trane"は、興味深い作品の一つだと思うのです。



と前置きが長くなりましたが、偉大なる巨人の音楽探究の出発点で生まれたサウンド、、この辺で一曲聴いてみることにいたしましょう。





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