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愛車STREAM君の初車検 [思い出の車たち]

先日、我が家に来て早いものでまる3年を迎えたSTREAM君、今回、初めての車検を受けることに。

その間、代車でHONDAのディラーさんで代車として貸してくれたのがこちらの車。

DSCN2483m.jpg

”HONDA N ONE”
この車、私のようなオールド・モーター・ファンにとっては、その昔、一世を風靡したHONDA初の軽乗用車N360に似た風貌が、何とも懐かしく一度は乗ってみたいと思っていたところにこの偶然。

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これはラッキーとばかり早速乗込もうとすると、渡されたのが.........キーではなくて??............

なんと軽のくせに生意気に キ―なしのスマートキーシステムが全車種標準装備なのだとか。
私のような世代の者には、キーがないというのは少しばかり不安を覚えてしまうのですが、とにかくセールスの方に使い方を教えてもらい、中へ入ってエンジンをかけ室内を見回してみると、まず驚いたのは、軽ということを忘れさせるほどの車室の広さ。

日頃仕事でよく乗る、トヨタのヴィッツや日産のマーチといったリッター・カーを凌ぐのではと思えるほど、そしてその内装も同等か同等以上という感じ。

とにかく、これは面白そうだと思い走り始めると。

あや、車が重い!!............!

これは、走らないなと思いきや、よく考えてみると今乗って来た我が家ストりーム君、2ℓエンジン搭載最高出力160馬力の持ち主。

さほどアクセルを踏み込まなくともスーッと発進する、いつもの調子で運転したのでは、その比較、考えてみれば 660CC 43馬力でしかないN-ONE君に望むのは酷なこと。

そう思い直し、アクセルの踏み込みを変え運転し直してみると、その走りは結構きびきびしていて、街中を走り回るには十分すぎるほど。
こうなると、1.3ℓ車並みの加速というターボ仕様にも乗ってみたくなってしまいます。

そうこうして、N-ONE君に親しんだところで、ふっとダッシュボードの下を見ると、こんなスイッチが..........。

sec_01_02_02_img_01.jpg


ECONとありますねえ。
それ、もしかすると思い、交差点で信号待ちをした時に、スイッチを入れてみると。

案の定、しばらくしてエンジンストップ。
そして、信号が青になりアクセルを踏むとエンジン・スタート、再び快調に走り始めます。

そうこれ、バスなどでよく見るアイドリング・ストップ・システムのスイッチなのですよね。


市街地や高速走行では、燃費ℓ13㎞近くまで走るのに、道が狭くどこに行っても渋滞だらけで前に進まない船橋の市内走行で悪くすれば、ℓ7㎞を切ることもしばしの我が家のストリーム君。
そうしたことから、この装備など我が家のストリーム君にも是非とも欲しいもの!! 


いたれりつくせりの今の軽自動車。なかでもHONDA N ONE,君は、面白い。
2012年11月の発売より、10ヶ月で販売台数10万台という人気のほどわかるような気がします。
僅か1日の付き合いでしたが、今度はHONDA N ONE,君、数日間借り出してロングドライブを試してめたいという気になってきました。


さて、N ONE君に夢中になってお話が忘れてしまいそうになりましたが、この辺で肝心のストリーム君の方のお話へ。

我が家のストリーム君、今回車検までの走行距離は、12000㎞。
日頃は仕事の方が忙しく、休日はぐったりで遠出の機会も少なかった割には、結構走っていたなという印象。

この程度の走行距離で、特に調子の悪いところもなかったので、今回は調整程度で済むだろうと思って点検してもらうと、思った通り特に悪いところはなしとの回答。

しいて言えばワイパー・ブレードの劣化があるといことで、これは自分で交換することにして、今回の車検では、ベルト類の張り直し、プラグおよびエア・クリーナーの清掃、タイヤ・ローテションなどの諸調整のお決まりメニューと、1回は無償という純正カーナビの更新、そしてディラーおすすめの有償メニュー、ボディ・コーティング・メンテナンスをしてもらうことにしました。


そして、車検整備を終え帰ってきたストリーム君、まず見て気付いたのはボディ・コーティング・メンテナンスの威力。
3年の間にボディのあちらこちら出来てしまった小さな傷が、すっかり消えて新車の輝きを取り戻していた。

いやこれはやって良かった思い、引き渡しを受け走り出してみると、こちらも全体的に剛性感が戻って気分爽快の走りを楽しまさせてくれる。

12000㎞という走行距離は、ちょうど機械内部も馴染みその性能を一番おいしく味わえる時期。
そこに、車検による点検調整を行ったことで、新車時以上の走りの爽快感を味わえるようになったように思えるのです。

そして、そうなると、もう少し走りを楽しみたく思うのも人情。

ということで、次の休日に向かうことにしたのが昨年2月に開通した東京ゲートブリッジ
この橋のたもとには、建設前より何回も行っているのに何故か一度も渡ったことがない。

しかし、今回は2020年の東京オリンピックも決まったことだし、新木場方向からゲート・ブリッジを渡り、オリンピック施設建設予定地が多くある東京ベイ・エリアを見に行こうとストリーム君と出掛けることにしたのです。

まずは橋の新木場が入り口にある、先代の愛車オデッセイ君もその別れ際にその雄姿を残した、若洲海浜公園前で、ゲート・ブリッジと記念撮影。

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そして、一路ゲート・ブリッジへ。
それでは、ご皆さんも一緒にストリーム君に乗ってゲート・ブリッジを渡ってみることにいたしましょう。



ストリーム君の快調な走りぶりお分かりになりましたか。

この橋の長さは、2,618m、橋梁最上部の高さは 87.8m。
この日は、日曜日であったため道路はすいていましたが、普段は物資を積んだ大型トラックが多数行き交う東京湾岸の大動脈。
オリンピック会場の建設が始まれば、さらに建設資材を運ぶ車でその賑わいは増すものと思われます。

それにしてもこの橋の上から見る東京の眺望は、なかなかのもの。
ビデオにもご覧いただけた思いますが、東京のビル群を望む方向に歩道が走っていて、この日も大勢の人が橋を登り、その眺望を楽しんでいました。

私も、今度はその歩道を歩いて橋を渡り、じっくりとその絶景、楽しむことにしたいと思います。



さてもう一つ、ストりーム君と走った時の映像、こちらは日本のジャズ・ヴォーカリスト 中本マリさんの未発表スタジオ・ライブ音源を公開したくて作ったものですが、このブログで、まだご紹介していなかったものなのでご覧ください。
曲は、ミッシェル・ルグランが中本マリさんのアルバムのために作曲した、”You're Gone”です。



この映像も愛車との思い出の一コマというところ。

でも、こうしてこの記事を書いてきて思ったのは、オデッセイ君との別れから3年後の東京の今の姿、その時のブログを見ていただければお分かりになる通り、スカイツリーもゲート・ブリッジも建設途上で、今とは違う。

いよいよ4年目に突入したストリーム君、今度はプラグやエアクリーナーのグレード・アップに着手して、今から2年後、東京はどう変わっているのか、リフレッシュした後に、この場所また訪れたみたいと思います。












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日産自動車 歴戦のレーシングカー達!! [思い出の車たち]

仕事の方の忙しさもひと段落、さあプレー再開と思ったら、なんと気力がいまひとつ。
どうも、ほっとしたせいか、一気に疲れがどっと湧き出て来たようで、それがここところの暑さも手伝ってなかなか回復しない。

若い時はこんなことなかったのに................。
やはり年だなと思いながら、仕事から帰るとほどなくお休みモードに突入という毎日が続いているのですが。

そうした訳で、ブログとのお付き合いもちょっと疎遠気味になってしまい、特に車記事、これまで書いて来たマツダロータリーの思い出の最終章も、どうもパワー不足で一向に筆が進まないという塩梅。

しかし、気力回復は今だ万全ではないものの、それではいけないということで、今回は11年前に出会った日本のモーター・スポーツを歴史を切り拓いた日産のレーシング・カー達、その映像を、PVに編集してみましたので、ちょっとそちらをご覧に入れることにしたいと思います。


それは、私が東銀座にある日産自動車本社の近くの職場にいた頃のこと。
いつものように昼休みにその本社ビルの前を歩きながらショー・ルームの方に眼をやると、なぜか並んでいる車の容貌がまるで違う。


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そこに並んでいたのは、日産自動車の今のライン アップを誇らしげにアピールするいつもの新車群ではなく
、世界のラリーを勝ち抜いてきた往年の名車、240ZとバイオレットA10。

さらにショールームの中を覗きこむと、気合い十分の面構えをした歴戦のレーシング・カー達が所せましと並んでいたのです。

さて、これは大変、昼食を終えたら帰りには絶対立ち寄らねばと、大急ぎで食事を済ませ、ショールームの中に入るとそこにあったのは!!


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ロータリーの思い出 その2 [思い出の車たち]

前回その1では、マツダロータリーエンジンの誕生からモーター・スポーツへの挑戦、そしてスカイラインGTRを破り、国内ツーリングカ―・レースの頂点に立つまでをお話させていただきましたが、今回はそのルマンへの挑戦の始まり、そこからお話を始めることにしたいと思います。

Mazda 7872_corner_large.jpg


スカイラインGTRからサバンナRX3への王者の交代、今考えると、それは直列6気筒エンジンを搭載したスカイラインGTRの多気筒、高回転、高出力エンジンの時代から、軽量、コンパクトで高出力レーシング・エンジンの時代への幕開けの出来事であったように思えて来ます。

さらに、このロータリー・エンジン、レシプロ・エンジンにあるバルブなどの複雑な機構を持たないことによるOH等整備の容易性という利点、それが、レースにおいて多くのプライベータ―による支持を受けていくことになったのですが、そのルマンへの挑戦も、そうしたプライベータ達の手によってなしとげられたのでした。


そのロータリー・エンジンが初めてルマンに登場したは1970年のこと。
ベルギーのプライベート・レーシング・チームの手による、10Aロータリー(491cc×2)を搭載したシェブロンB16によってでした。

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このロータリーのルマン初参戦、結果は序盤早々のリタイアに終わるのですが、それから3年後の1973年、日本のプライベーターにより、再びロータリーのルマンへ挑戦が開始されます。

マシーンは、シグマMC73・マツダ。
当時日本国内レースのトップ・カテゴリー・レースであった、富士グランチャンピオンレース用のカテゴリー・グループ7の2座席レーシンガーに、夜間走行に必要なライトや補記類をつけるなど、ルマンに出場できるようグループ5の規定に改造された車で 、搭載されたエンジンは、マツダオート東京のチューンよる573cc×2ローターの12A。

そのシャーシーの設計は日本のシグマ・オートモーティヴ(現在のサード(SARD)の母体)という、プライベート参加ながら純国産によるルマンの初挑戦となったのです。

MC73 leman.jpg


その初挑戦、11時間目にクラッチのトラブルでリタイアという結果に終わりますが、翌年はマツダオート東京(後のマツダ・スピード)が中心となり、シグマ・オートモーティヴのエントリーした前年モデルの発展型のマシーン シグマMC74・マツダで引き続き挑戦、24時間を完走するも規定周回数不足で失格という結果に終わることとなります。

シグマMC741974_1.jpg


そして、1974年にシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦したマツダオート東京は、その5年後の1979年、今度は単独で 前年発売されたばかりのを模したアメリカのレース統括団体 IMSA GTO仕様のシルエット・フォーミュラ・マシン サバンナRX7・252iでルマンに挑戦をすることになるのです。
しかしながら、マツダ、ファクトリーのサポートを得られなないディーラー参加であったこともあり、準備不足も手伝って結果は予選落ちという散々なものに終ってしまいます。


しかし、こうした苦難にもあいながらマツダオート東京は、翌80年はルマン参戦準備の年として欠場するも、翌81年からは、再びその挑戦を開始します。

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                                      13Bロータリー・エンジン

その挑戦は、出力を79年の280馬力から300馬力に向上させた2ローター13Bエンジンを搭載した2台の253を携え出場、予選は通過するも決勝リタイアとなるのですが、翌82年には信頼性の向上を図った同じく2台の254でチャレンジ、1台が見事完走 総合14位の結果を残すに至ったのです。

サバンナrx7 254.jpg


そして、この年の14位完走の好結果は、腰の重かったマツダ・ファクトリーをルマンの道に誘い込むことになったのです。

そこで、91年のルマンの生放送の中で放映された日本車の挑戦の映像で、マツダ・ファクトリーの参戦の記録をご覧いただくことにいたしましょう。



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ロータリーの思い出 その1 [思い出の車たち]

先日の新聞記事にあった、マツダRX-8の2012年6月生産終了のニュース。
1967年コスモ・スポーツの発売以来、45年近く続いた市販ロータリー・エンジン車の歴史に終止符を打つ、このこと、子供時代に1964年の東京モーター・ショーに参考出品されたコスモ・スポーツに出会って以来、自分の成長ともに進化し続けて来たロータリー車の姿を見て来た私にとって、時代の趨勢とはいえ実に寂しく感じられたものでした。


マツダが、このロータリー・エンジンの開発の着手したのは、1961年のこと。
それは当時、世界でロータリー・エンジンの耐久テストに成功し、1964年にそのエンジンを搭載した車、バンケル・スパイダーを世界に先駆け発売した、ドイツのNSU/バンケル社との提携によってのことでした。

bankeruG.jpg


そのバンケル・スパイダーのスペックは、

全長3580mm 全幅1520mm  全高1260mm 車重670 kg
エンジン
排気量 498 cc×ローター 最大出力 50 hv/6000 RPM 最大トルク 4,5 kp3250 RPM
最高速度150 km/h

といものでした。

しかし、当時バンケル社からマツダに開発用に届けられたエンジンはかなり酷いものだったそうで、40時間程度回すと、レシプロ・エンジンのシリンダーにあたるローターハウジングの内壁に何本もの傷ができてしまい白い煙を吹き出してしまうものだったのです。

そして、そこからマツダのロータリー・エンジンの社運をかけた開発への格闘が始まるのですが、それはレシプロ・エンジンのピストンリングにあたるロータとローター・ハウジングの隙間を埋めるシール材、アペックス・シールのローターハウジング内部を痛めることない素材探しだったといわれています。

その素材探し、私の記憶では金までも含むあらゆる金属が試されたものだったのですが、どれもうまくいかずとうとう開発は暗礁に乗り上げしまったという大きな難関にブチ当ってしまうことになるのです。

そこで藁を掴む思いで試されたのは非金属の素材、それはやがてカーボンという素材の発見、炭素とアルミニウムの化合物を素材としたアペックス・シールでの成功をもたらすことになったのです。


こうして、大きな難関を乗り越えたマツダのロータリー・エンジン、その後ローター・ハウジング内面への硬質クロームメッキを施すなど、さらにハウジング内部の保護対策強化を行い、1963年の東京モーター・ショーには400×1ローターと400×2ローターの試作エンジンを展示、翌年にはこのエンジンを搭載したスポーツカ―を発表することになります。


その後、そのプロト・タイプ・スポーツ・カーは、300万kmに及ぶ走行テストを経て、1967年5月市販車としてその姿を世に現すことになるのです。

その世に出た、世界初の市販マルチ・ローター・エンジンである10A型ロータリー・エンジンを搭載した、コスモ・スポーツ。
そのエンジンスペックは、

直列2ロータ、総排気量491x2cc 最高出力110ps/7000rpm 最大トルク13.3kg-m/3500rpm

そのエンジンを940kgの流麗なボデーに載せたその姿は、当時、近未来を感じさせる大変魅力的なものでした。

Mazda_cosmo_sport2.jpg


こうした苦難を経て生れたロータリー・エンジン、マツダはその後、そのエンジンを搭載した車を次々発表、モーター・スポーツの世界にも数々の歴史を刻んで行くことになります。

そして、マツダとモーター・スポーツといえばルマン24時間レース。

1991年、そのルマンで日本車として、さらにはロータリー・エンジン車として唯一の総合優勝を果たすことになるのですが、これよりあとは、その91年のレースの映像ビデオを見つけ編集いたしましたので、その映像を見ながらお話を続けて行くことにしたいと思います。






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小さな体に搭載されたハイメカニズム:HONDA S800物語 [思い出の車たち]

PLから記事の引っ越し行い、過去記事をあらためて見てみると、「思い出の車たち」、このテーマの記事、昨年の夏以来一つも書いていないことに気づいたので、今回は、久々に車のお話。

そこで今回取上げることにした車は、ライトウェイト・スポーツカーの傑作、HONDA S800 通称エスハチ。

Honda S800.jpg

 1966年に登場したこのエスハチ、L3335㎜×W1400㎜×H1200㎜という今の軽自動車(L3400㎜×W1480㎜×H2000㎜)の大きさにも満たない小ぶりな車でした。

しかしながら、その体の中には、当時としてはまるでレーシングカーのような高度で精緻なメカニズムを搭載した車だったのです。

エンジンは、まだOHVが主流でやっとSOHCを取り入れられようになったこの時代に、すでにDOHCを採用、その水冷4気筒のエンジンに4連キャブレター、4本のエキゾーストマニフォールドを装備し、わずか791cc排気量から70PS/8,000rpmもの高出力を発揮していたのです。

この数値は、当時の代表的な乗用車の日産ブルバードが1300CC62PS、トヨタのコロナが1500CCで70PSであったことから見ても、その半分程度の排気量のエスハチが、同等か同等以上の驚異的なパワーを持っていた事がおわかりになると思います。

またさらには、サスペション。

フロントサスペンションは、ダブルウイッシュボーン、そして後輪は、当時リジットの半楕円リーフが主流であったのに対し、独立懸架を採用、足回りの面でも本格的 なものでした。

そして、それらを装備した755kgの車体を 0~400mは16.9秒、 最高速度は160km/h で走らせる高性能を達成していたのです。 

この数値も、当時の1300~1500CCクラスの乗用車のそれが0~400m 19秒、 最高速度は 140km/h程度あったことを考えると、大変な高性能であったことがわかります。  

honda%20s800.jpg

 

さて、このホンダの小型スポーツカーが、発表されたのは1962年のモーターショーのことでした。
当初は、360CCエンジン搭載のS360と、500CCエンジン搭載のS500の車種が、ホンダ初の4輪乗用車として登場したのです。
                                                                           当時まだ小学生だった私は、父親に連れられ、晴海にあった国際貿易センターで開かれていたそのショーに行ったのですが、4輪車の展示場には、前年までなかったホンダのコーナーがあり、そこに2台のスポーツカーと後輪サスペンションが展示されていて、その横でS360と、S500が甲高いエキゾーストノートを響かせながら建設途中の鈴鹿サーキットを疾駆する映像が、誇らしげに流されていたのを覚えています。                                                     
そして、初めて発表する4輪車が、スポーツカーというのも当時オートバイレースで世界を席捲していたHONDAらしいなと感じたものでした。                                                       
hondaS360.jpg          
                                                             
当時、ホンダが4輪への参入を急いだのは、来るべき貿易自由化に備え時の政府が、日本の自動車産業の合理化と新規参入を制限する動きあったためで、このモーターショーの後、国民車としての性格がある軽自動車枠でスポーツカーは不向きだということからS360の市販は中止されましたが、S500は、1963年10月に発売されることになったのです。                                    
                                                                
ところが市販の中止されたS360、スポーツカーとしては陽の目を見ることはなかったのですけど、そのエンジンは、当時市販を目指していた軽4輪トラックに積まれることになり、1963年8月本田初の市販4輪車T360として世に出ることになるのです。                                         
                                                             
驚くべきことにT360がS360から譲り受けたエンジン、DOHC水冷直列4気筒、4連キャブレーター備えた、まさにスポーツカーのエンジンそのものだったのです。
そのため、最高出力もわずか360CCの排気量で30PSと1ℓ当り 100PSにせまるもの。
当時の軽自動車の最高出力が、20PS前後であったことを考えると、かなり異様な存在であったわけです。
そして、現在も、これまでDOHCエンジンを搭載した トラックというのは、このT360だけで例がないという、特異な存在であり続けている、隠れた伝説の車なのです。                                                                                   
t360.jpg
こうして登場したS500は、早くもその翌年の3月にエンジンをボアアップしたS600に発展、50万円+αというスポーツカーとしては低価格にあったこともあり、このあたりから多くのプライベーター達が、この車で当時産声を上げたばかりの日本のモータースポーツに参加するようになっていったのです。                                           
                                                                             
その中には、日本モータースポーツ黎明期の伝説のレーサー 浮谷東次郎や、後に日本初のレーシングカーコンペティベターとなった、現、童夢の代表の林みのるの姿がありました。
                                                                           
やがて浮谷と林は、このS600をさらに戦闘力にあるものにしようと、この車のシャーシにFRPボディを仮装した、レーシングマシンの開発を始めることになるのです。                                                                                                                                                       
                                                                               
そして、その車はカラスという名で登場するのですが、その開発途上浮谷は、鈴鹿での練習中、サーキット内を歩いていた人を避けようとして事故に遭遇、帰らぬ人なってしまったのです。                                                                                                   

そうした試練はあったものの、林はその後もレーシングマシンの開発を続け、生まれたのがS800をベースにした、伝説のレーシングカー、”マクランサ”だったのです。                                                                                                              

マクランサ.jpg
                                                                                   
当時の日本のレース界は、トヨタ、日産などメーカーのファクトリーチームが参加、その話題をさらっている時代でした。
その中で、プライベーターが作った小さなレーシングマシンが、そのファクトリーマシンに喰らい付いて走る。
不恰好ではあり、けして仕上げのよい車とは言えないけれど、その勇姿は多くに人の脳裏に刻まれるものでした。                                                         
                                                                             
マクランサ コク.jpg                                                                                           
                                                                                                
マクランサ1.jpg                                                                       
                                                                                             
日本モータースポーツの登竜門として、多くのドライバーを育てたS800、これから派生し生まれたレーシングマシンともども、日本モータスポーツの底辺拡大に貢献した車として、けして忘れられない名車だと思います。
                                                                                 
エコが叫ばれる現代でも、ドライブすることの楽しさを身近に味わえる強烈な個性を持った、エコも兼ね備えた小さなスポーツカーエスハチ、 その魅力の輝きは永遠のものだと思います。
                                                                                                                

                                                                                                                                                                                                                                               


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日本のモータースポーツの発展に火をつけた車 その2 [思い出の車たち]

7月に書いたその1に引続き、その2を書こうと思っていた矢先、Playlogのダウン。
以後、気が乗らず放置していたのが、8月も半ばそろそろ筆をとらねばと思いその続編を書き綴ることにしました。

前回は、1964年の第2回GP、Porshe904と、スカイラインGT誕生、その激闘でしたが、今回はそれ以後のお話。
日本モータースポーツの次なる伏兵 Porshe906、通称カレラ6のお話です。

       



必勝を期した第2回日本GPで惨敗を喫したプリンス自動車は、GP終了後、Porsheに対抗すべく第3回日本GPの必勝を期し、プロントタイプレーシングカーの開発を開始することとなります。
それが、国産初の本格的レーシングカー、R380-Ⅰです。

シャシーは、当時2ℓクラスレーシングスポーツカーで、最も戦闘力が高いと言われたブラバムBT8のシャシーを参考にした鋼管フレーム。
そのシャシーに、904GTSを意識したようなデザインのアルミボディを纏い、そしてエンジンは、スカイラインに積まれたG7型エンジンをベースに新開発された、今や伝説のエンジンとなたGR8型を搭載した本格的なものでした。

       
                          ブラバムBT8 
   
そのスペックは、車両重量650kg、2ℓギヤ駆動式DOHC 直列6気筒 4バルブ、3連キャブレター、潤滑方式をドライサンプとした、純レーシングエンジンカーエンジンを搭載、最高出力は、200馬力と発表され、ライバルのPorshe904の180馬力を遥かに凌駕する、あの傑作戦闘機ゼロ戦の名エンジン栄型を製作した中島飛行機の後継者達、ここにありを示すものでした。(中島飛行機は、プリンス自動車の前身)


       
                          プリンスR380-Ⅰ

こうして必勝を期し開発されたR380、65年GPに出場の準備は整ったのですが、この年のGPは突如中止。
翌年の持ち越されることになってしまったのです。

それは、主催者側のJAFモータースポーツ委員会、第1回日本GPの後の63年8月に立上げ、組織の整備も整わない中、第2回GPの準備に奔走し開催にこぎつけたものの、次の課題として組織の基盤整備が優先されなければならなかったこと。
そして、参加者である日本の自動車メーカー帰趨が、この年の10月解放さるた自動車貿易自由化への動きの中で決まらなかったこと等がその中止の背景にあったようです。

ちなみにこの年、力の発揮場所を失ったR380は、茨城県谷田部の自動車高速試験場にてスピード記録に挑戦、2ℓクラスで7つの国際記録を樹立することになるのです。



そして翌66年5月、舞台をオープンしたばかりの富士スピードウェイに移し、第3回日本GPが開催されることとなったのです。
その時、必勝を期すプリンス、それに対しはまた大きく立ちはだかったのがこのPorshe906だったのです。



Porshe906とR380の事実上一騎打ちになったこの年のGP、ちょっと余談ですが、このほかにも余り話題にできませんが、日本の各メーカーがプロトタイプモデルをエントリーしているのでそのお話を。

まずトヨタは、あのビンテージカー TOYOTA2000GTのプロトタイプをエントリーさせ基本的にはGTカーながら、3台のR380に続き見事4位に入賞しています。

日産、こちらは当時1.6ℓだったフェアレディSRのシャシーに2ℓDOHC直列6気筒エンジンを搭載した謎の車、フェアレディSを走らせています。

そして、ダイハツ???
あのダイハツがプロトタイプレーシングカーを作ったの と思われるでしょうが本当にあったのです。

それはこの車、

       

ダイハツP3です。
ちょっと柿の種みたいな可愛い車。
当時のダイハツの市販乗用車コンパーノのシャシーに、1.3ℓDOHC4気筒エンジン搭載したレーシングカーなのです。
走っている姿はまるでチョロQ。

       

このレースで総合7位に入りGP1クラス優勝を飾っています。


それでは、ちょと横道にそれてしまいましたが、お話を本題に戻して、この906。

911用の2ℓ6気筒エンジン搭載する車として開発され、このGPの年、66年に登場しています。
エンジンは2ℓSOHC水平対向6気筒で、最高出力は210馬力。
シャシーも904の鋼板フレームから鋼管フレームとなり、捻じれ剛性の強化、整備性の向上、軽量化を図り、その結果、車重は600kgそこそこまで軽減されることなりました。
そしてボディ、こちらは徹底した空気抵抗の削減を目指し、空気抵抗係数Cd値0.346と極めて高い値を示しています。

驚いたことに、この車の車高は98㎝しかないのです。

主な戦績しては、66年タルガフローリオで総合1,2位、この年のルマンでは、フォード、フェラーリといった大排気量マシンを相手に、見事総合4,5,6,7位入賞、クラス優勝を遂げています。



さて、日本GP、この年の8月日産との合併が決まっていたプリンスにとっては、絶対に負けられないレースだったのです。
ところが、相手は904GTSを遥かに進化させたカレラ6。並大抵のことでは勝利は難しい状況だったのです。

そして本戦の日がやって来る。レース序盤トップに踊り出たのはカーナンバー11番 砂子一義の乗るR380でした。
しかし次第に追い上げてくるカレラ6、ついに24週目、1.6kmのホームストレートで抜かれてしまうのです。

ということで、これから先は以前NHKのプロジェクトXで放送されたこの映像ご覧ください。

>

この時の放送では、給油が勝敗を決めたで終わっていましたが、実は給油後に起きたPorsheのスピン、リタイアをもたらしもの。

実は、そこにはその後、余り語られることのなかったプリンスの凄まじいチームプレーがあったのです。

それは,,,,,,,

給油後、滝進太郎の乗った906は、砂子のR380を追い求め追撃を開始する。そして、瞬く間に、砂子の後を走るカーナンバー8番 生沢徹の乗るR380に追いつきこれを抜こうとする。
ところが生沢は、抜こうとする906を巧みブロックしこれをさせない。
数週に渡りこのブロックによる攻防が続き、焦った滝はスピン、リタイアとなってしまったのです。

そして数週後、その生沢のマシンにもミッションのトラブルが発生、ピットに戻る手前でストップしてしまう。
車を降りた生沢に、スタンドの観衆から大きなブーイング嵐が起きる。
しかし、生沢は車から離れようとせず、車の後ろに回り一人で車を押してピットに戻ろうとする。
一歩一歩、車を押し前へ進もうとする生沢、それを見つめる大観衆。
やがて観衆のブーイングの嵐は応援の喝采へと変わっていったのです。

このシ-ン、今でも当時TVでこのレースを観戦していた私の脳裏から、けして忘れることのできない一コマなっています。

こうして見ていくと、このレースの勝利は、プリンスチームの勝利への執念が築いた見事なチームプレーと気迫がもたらしたものであり、車の性能では完全に負けていたことをものがったているように思えます。

事実、翌年の日本GPでは、R380もPorshe906同様、空気抵抗を意識したⅡ型に進化出場するも、2台のカレラ6の前に一矢も報いることなく破れているのです。

      
       
            R380-Ⅱ 67年日本GP 高橋国光ドライブ

       
以後、日本の自動車メーカーは、打倒 Porsheの旗印の下、強力なマシーンを世に送り出していくことになります。

さらに69年、R380に積まれたGR8型エンジンはロードバージョン用にデチューンされS20型エンジンとして、スカイラインに搭載、スカイラインGTRとしてあの伝説の50勝を達成する。

そうしたことを考えると、この日本のモータースポーツの黎明期に起きたPorsheとの2つの戦い。
これが、日本のモータースポーツ発展を促進させた起爆剤となっていた、そのことを是非とも脳裏に刻み、語り続けていただきたいものだと思います。

       

日本のモータースポーツの発展に火をつけた車 その1 [思い出の車たち]

前回は、世界制覇をもたらしたPorsheのお話をいたしましたが、今回は日本のモータースポーツの黎明期、その発展を大きく動すこととなった2台のPorsheについて筆を進めて行きたいと思います。

その1台目は、Porsheのレーシングカー史上ひとつの技術的転換点となった車、904GTSです。

       

このPorshe、レースを主眼として開発されたの車で、エンジンとギヤボックス以外はすべてが新設計されたもので、ミッドシップレイアウト、FRP製のボディ、鋼板プレス製シャシーの採用など、これまでのPoesheとは大きく異なった、Porsheとしては初の試みにトライした車でした。

エンジンは、当初911用の6気筒を採用を予定し設計されていましたが、信頼性を考慮しカレラ2で使われていた水平対向 2ℓ DOHC4気筒エンジンを搭載しています。
そしてこ、そのエンジンにはロードゴーイングバージョンを製作販売するため2種類のチューニングが施され、レース用エキゾースト付で180馬力、サイレンサー付 ロードゴーイングバージョンで155馬力の仕様が用意されていました。

その後、少数ながらエンジンは、当初計画の6気筒2ℓに加え8気筒バージョンも生産され、64年シーズンの世界選手権では、セブリング12時間 クラス優勝、タルガフロリオ 総合1.2位、ニュルブルブリンク1000km クラス優勝、
65年には、ルマン24時間 総合4位などの輝かしい成功を収めました。

また、Porsheはこの車を本物のGTとし、ラリーフィールドにも参加させ65年のモンテカルロでは、見事2位入賞を果たしています。


       

       

ロードゴーイングバージョンの生産は、当時のGTクラスの資格を取得するための要件であった100台の生産実績をうるためのもので、これらの生産車は、29,700マルクで市販されたのですが、瞬く間に売れ追加生産の結果、最終的に120台が生産されたのでした。

そして、その中の1台が、日本人の手に渡り、鈴鹿サーキットのオープンによって、初のGPが開催されたばかりの日本のモータースポーツ界に殴りこみをかけることになったのです。

       

1964年5月鈴鹿での日本グランプリ、スカラインGTの誕生の伝説の中に、この904はその足跡を深く残しています。

生沢徹が操るスカイラインと、式場壮吉の操る904のデッドヒート、結果は、904の勝利、スカイラインが2位となったものの日本車が初めてヨーロッパの本格的レーシングカーと対決し互角に競い合った事実は、日本のモータースポーツ黎明期を飾る神話として、今も多くの日本人を魅了し続けています。

私も、この1964年の秋、晴海で行われたモーターショーのプリンス自動車(その後、日産自動車と合併)のコーナーで放映されていたこのレースの映像に接し、以来、あたかも飛翔するように走る904の姿が、深く脳裏に刻み込まれてしまったことを覚えています。
そこで、ちょっとこんな映像を見つけましたのでご覧ください。



このレース、現在でも純レーシングカーのPorsheに対し、セダンボディのスカイラインGTが、互角の戦いの後、わずかに力およばず敗れたと語られているようですが、果たしてその力の差はどうだったのか。

この映像を見ると、スカイラインはドリフト寸前の限界状態でコーナーを駆け抜けていくのが見えます。
ドライバー生沢徹の、闘魂溢れるドライビングに車が悲鳴を上げながらPorsheに食らいついいている様子が良くわかる映像だと思います。

一方のPorshe、こちらのコーナーでの挙動を見ると、コーナーに侵入後大きく外側へ膨らんでいく様子が見えます。
また、スカイラインと一緒に写ったコーナー侵入時の写真を見ると、Porsheのロールがスカイラインと較べ大きく見えるなど、なにやら問題をかかえていたように見えます。
この日の904、前日の予選でクラッシュ、本戦への出場は絶望と見られていたのが、徹夜の修復作業で出走にこぎつけたという事実を考えると、サスペンションのセッティングが十分できていなかったのではないかと思われます。

手負いの状態で逃げる904に対し、超全力で追いすがるスカイラインの構図。この時、プリンス自動車の技術陣は、欧米のレーシングカーの非常に高いポテンシャルを知り、それが翌年の日本初のプロトタイプレーシングカー、R380の登場に繋がっていった。

そういう意味でこの904、日本のモータースポーツ発展のおおいなる刺激をもたらした、いつまでも語り継がれるべき名車なのだと思います。

耐久王者への飛翔/Porsche908/2 [思い出の車たち]

思い出の車、やはり取り上げなければならないのは、Porsche。
日本のモータースポーツにとって、Poreshegaが及ぼしてきた影響は計り知れず大きなものがあり、思い出も多い車ばかり。[雷]

そのPorscheの中でいつの時代のものを選ぶか![ふらふら]
今回は60、70年代を脱出し、80年代あたりと思ってはみたものの、この時期のPorsche、既に耐久の王者として世界に君臨し数多くの挑戦を受けていた時。
それはそれで思い出深いものがあるのだが、やはり挑戦者であった時代、そして初のPorsche、世界王者の達成に焦点を当てたいということで、またしも60年代後半のこの車

       
                      Porsche908/2

Porsche908/2を取り上げることにしました。

1968年、それまで排気量無制限で争われていた、世界の耐久レースを舞台とした世界スポーツカー選手権のレギュレーションが変更され、年間25台以上生産のグループ4スポーツカークラスは5ℓ、グループ6プロトタイプカーは3ℓに排気量が制限されることになったのです。

それは、それまで高い信頼性を有しながら、2ℓ、2.2ℓという小排気量エンジンしか持たず、フォードフェラーリの出場の前にはクラス優勝に留まっていたポルシェに、総合優勝の機会の訪れを意味するものであったのです。

そして68年シーズン初戦、デイトナ24時間レースで、Cd値 0.273まで空気抵抗を軽減したカウルに、65年から熟成してきた水平対向8気筒 2.2ℓ 270馬力エンジンを搭載したポルシェ907LHは、見事1-3位を独占することになるのです。                                 

       
                    907 Daytona Win
                      
しかしながら、対するフォードGT40の4.7ℓに対し、2.2ℓでは互角に走ると見えても力の差は大きすぎる。
ポルシェはレギュレーション改正後、急ピッチでの開発を進めていた3ℓエンジンを907のシャーシーに積み、新たに908と命名してモンツアにエントリーさせることになるのです。

       
             DOHC 3ℓ 空冷水平対向8気筒エンジン

初エントリーの908、このモンツアではエンジントラブルのためフォードに敗退、続くニュルブルクリンク1000Kmで優勝するも熟成不足はゆがめず、5戦をフォードに奪われ、この68年シーズンはチャンピオンシップ2位の結果に終わることになります。

続く69年シーズン、プロトタイプカーの最低重量及びフロントウィンドシールドの面積制限撤廃という新レギュレーションを受け、スパイダーモデルの908/2が登場します。
この車、ルマンなどの長距離、高速コースはクローズドボディの908と、この年デビュー予定のスポーツーカークラス、4.5ℓの917に勝負を委ね、あくまでの中距離、テクニカルコース向け用のマシンとして開発されたものでした。

       
                 Porsche908クローズドボディ

エンジンは、3ℓ水平対向8気筒 350馬力を搭載し車重はクローズドボディが660kgに対し僅か600kg、空気抵抗はCd値0.506と悪化したものの、軽量軽快さを武器に、この年セブリング12時間、ルマンではフォードに優勝を奪われたものの、このスパイダー908/2で4勝、クローズドボディで2勝の計6勝を挙げ、ポルシェ初の世界マニファクチャー選手権のチャンピオンもたらすことになったのです。


そして、この年のセブリング12時間を、あのハリウッドの大スター、スティーブ マックィーンがこの908/2をドライブして2位に入賞、翌年のルマンでは、5ℓとなった917Kによりポルシェ初の総合優勝を飾り、71年の名画 栄光のルマン公開へと繋がっていく、

              
                 マックィーンドライブの908/2
  
その後の、耐久常勝ポルシェ王者伝説の最初の1ページを飾ることになった車、それがこの908/2だったのです。

       

PS:600kgの重量に350馬力、この908/2、いかに恐ろしい車であったかをちょっと。

現在、町で見かける大型トラック、このエンジンの出力が360馬力程度なのです。
ところが、その重量、空車時で9500kg、最大積載時で25000kg余りになります。
このことから、このPorsche908の凄まじい加速力が想像できるのではないかと思います。  

ターボカー時代の幕開け [思い出の車たち]

今回は音楽の話題、一旦お休み。
今年正月に宣言した、月一度、思い出の車 の話題の掲載を!![わーい(嬉しい顔)]

ということで今回の話題は、ターボカー時代の幕開け とすることにしました。[霧]

現代のレーシングカー。
F1などターボ禁止のカテゴリーは別として、ターボチャージャーによるチューニングが当たり前になっていますね。[ダッシュ(走り出すさま)][ダッシュ(走り出すさま)]

                                          

ところがこのターボ、その幕開けを飾った車は。



ポルシェ??

 ルノー??

いーえ違います。

ポルシェが、当時アメリカ カナダで開催されていた排気量無制限のグループ7カーによるレース、CAN-AM選手権に5ℓターボエンジンの917/10kを送り込んだのは1972年。

ルノーがF1GPに、F1史上初めて1.5ℓターボマシンを送り込んだのは1977年。

それより以前に、ターボチャージャー搭載のレーシングカーが存在したのです。










その車がこれ、




       

どこのメーカー?? 


ウィングのロゴを読んでください。




え~~ッ 読めない。









では、







       

読めましたか~~~

TOYOTAと書いてあった。

正解です。

この車、トヨタ自動車が作った、TYOTA7。

ターボチャージャーを搭載したレーシングカーの草分けがこの車なのです。

トヨタがプロトタイプレーシングカーにチャレンジ開始したのは、1968年ことでした。
当時、年1回開かれていた、日本グランプリで活躍、話題を独占していた日産のプロトタイプレーシングカーに対抗してのことだったのです。

初年度は、3ℓのマシンを開発、エントリー。
しかし、急遽シボレーの5.5ℓエンジンを搭載し現れた日産のウィングマシンR381の前に敗れ、翌年は必勝を期し5ℓマシンにUp。

しかし、この69年の5ℓマシンも新開発の自社製V12気筒6ℓエンジンを搭載した日産のR382によって、またもや勝利を奪われてしまったのです。

そして70年。
必勝を期して現れたのが、このマシーン。
このターボチャージャーを搭載したトヨタ7だったのです。



5ℓV型8気筒エンジンにツインターボを搭載したこのマシン、当時排気量無制限の2座席モンスターマシンで争われていたCAN-AMカーが、7ℓ 550~600馬力であったのに対し、なんと車重620kgの車体に800馬力というとてつもないパワーを誇っていたのでした。

このターボという技術の導入。この技術、当時でもけして新しい技術ではなかったのです。
そが使われなかったのはターボの問題点、アクセルレスポンスが遅れることで、パワーはでるが、コーナーでの微妙な過減速が難しいため、テクニカルサーキットを主体とするF1や耐久レースではメリットが薄かったということなのです。


ところがトヨタはこの5ℓという排気量にこだわった。
というのも、当時ルマンなど24時間などを連戦する耐久レース選手権に出場のための車両規定、に排気量5ℓまでのグループ4カー(年間50台以上生産実績を持つ公道走行用保安機器がついた車両)があったためでした。
次のステップとして、世界に飛躍するためには5ℓは譲れない、しかしそれでは日産に勝てない。
そこで選択されたのが5ℓ+ターボという技術だったのでした。


       


そしてその1970年、ところが時代は当時問題が顕在化していた自動車の排気ガスによる大気汚染、この対策のため日産がプロトタイプによるレースの撤退を表明、それを受けグランプリ主催者のJAFもその年の10月に予定されていたレースを中止してしっまたのです。

そのため、日本でのレースデビューの機会を失ってしまったトヨタ ターボ7。
しかし、トヨタは照準を世界に変え、その後もCAN-AM向け開発を続けます。

そして、その年の7月、富士で開催されたTMSC1000kmレースのエキビジションレース2台のターボ7を走らせ圧倒的な加速と制動力を観衆の前に見せつけるのです。
それは、そのレースに来ていた日産の関係者の心胆を寒からしめるほどの迫力だったのだと当時のモータスポーツジャーナリズムは語っています。

ところが、この順調に進んでいたプロジェクトも終局を迎える運命の日がやってきます。
8月鈴鹿でテスト走行をしていたターボ7。
非公式ながらも鈴鹿のコースレコードを破る勢いのスピードで周回を重ね、その順調な仕上がりを見せていたさなか、突然コースアウト、車は大破、当時トヨタのエースドライバーであった河合稔は帰らるぬ人という悲劇が起きてしまったのです。

折しも日産が撤退を表明した排ガス問題のさなか、当時モータースポーツの歴史も浅く、モータースポーツを暴走族の集りとしか見ていなかった日本の社会では、それは開発継続断念を迫られる致命的な出来事でした。

日産に引き続きトヨタも撤退。そしてこの日から発展途上にあったモータースポーツも冬の時代を迎えることになったのです。

       

この幻のビッグマシーン、順調に開発が進めば、71年 CAN-AMに出場をしていたはず。
そして72年シーズンには、新たにエントリーしてきたポルシェ917/10kと史上初のターボカー同士の戦いを繰り広げいたかもしれない。

トヨタ7、今もそんな期待と夢を抱かせる、幻の名車だと思います。
そして、今も愛知県長久手にあるトヨタ自動車博物館にレストアされ、往時の夢をたたえその闘志を温めてる。

最後に、この車のエキゾートノーストを聞きながら、その夢の続きを見ることにいたしましょう。






車作りを変えた名車・Datsun 510 [思い出の車たち]



もう20年以上も前のこと、アーサーヘイリーの"自動車”という小説が大評判となった時、NHKがこの小説をテーマにした”自動車”驕れる覇者 というドキュメントを製作放送したことがありました。

内容は、50年代全盛を誇ったアメリカの自動車メーカーが、その地位に安住している間に、よちよち歩きながらアメリカに上陸、血の出るような努力を続け車を育ていった日本の自動車メーカーがその地位を奪うまでを、アメリカと日本のメーカ、フォード日産の生い立ちで構成したドキュメントでした。

このドキュメント中で、50年代日産がアメリカに乗り込んだ時の話。
持込んだ車は、ここで紹介する510の前身、Datsun210でした。
この210、最初は高速道路もまともに走れない車で、市場では同クラスのライバル車となるカブトムシのフォルクスワーゲンに簡単に追い抜かされてしまうだけでなく、それを追いかけようとすると振動が激しくなり、もうスピードを上げることができない、そんな粗悪な代物だったと紹介されます。


                       Datsun210

そして、ワーゲンを抜かせの合言葉の元に改良続けた210、やがて高速道路でワーゲンの追い抜きを達成することになるのですが、その時の日本人のまるでF1で優勝した時の喜びよう、今見れば、滑稽ともいえるその無邪気さが印象的でした。

ドキュメントは60年代、日本は自動車の貿易自由化を解禁、国内にも高速道路が整備され、日本自動車メーカーも国際的に競争力のある車を作るべく邁進する姿を紹介し、1967年、世界的な競争力を持った初の日本車として、それまでの日本車とは違った画期的な車、Datsun510の登場を紹介することとなるのです。



この510、日本名 Bluebird(3代目)は、この車発表される前年に登場した、画期的小型車 BMW1602にならい開発された先進的な車でした。


BMW1602

510の斬新さ、まずは外観からいくと、これまでの乗用車には必ずあった、運転席横の換気用の三角の小窓を廃し、ダッシュボードわきに強力なベンチレーターを取り付けたこと。
側面ガラスにカーブドガラスを採用し、広い室内空間を演出。
今の車では当たり前となっているデザインでしたが、510がその先駆だったのです。

また走りのメカの方は、当時2ℓ6気筒エンジンに採用されたいたOHC機構を、主力小型車で初めて採用、当時、この510(ブルーバード)とBC戦争とまで言われた熾烈な販売競争を繰り広げていたトヨタのコロナRT40のOHV 1.5ℓの70馬力に対し、1.3ℓで72馬力と優位を占めたのでした。


コロナRT40

さらに、サスペンションも前輪こそは独立懸架になっていたものの、後輪は半楕円リーフのリジットほとんどであった日本の乗用車の中で、いち早くセミトレーリングアーム式の独立懸架を採用、ブレーキも4輪ともドラムが常識であったのに対し、前輪にディスクブレーキを標準装備、1.6ℓのSSSでは、後輪もディスクブレーキという、高い走行性を実現していました。



そして1969年、世界3大ラリーの一つ、サファリーラリーに出場した510は、フォードやヴォルボ等の、世界の強豪と競い、総合3位、Dクラス優勝を果たし、翌70年には、総合1,2,4位、7位とチーム優勝を達成、真に世界に通用する日本者であることを世界にアピールしたのでした。

その後の日本の車作りは、51の0最大のライバル、トヨタのコロナが510発表の翌年、エンジンをOHC 1.6ℓ 85馬力に改装、1970年T80へのモデルチェンジでは、カーブドガラスを採用、三角窓を廃し、前輪にディスクブレーキを標準装備するなど、他メーカーの車作りにも大きな影響を与えることになったのです。

70年代以降の日本車は、年代前半に吹き荒れた厳しい排ガス規制を世界に先駆け達成し、さらに世界の頂点に駆け上がっていくこととなるのですが、我が国の車作りに大きな転機をもたらした車として、この510は、けして忘れてはいけない存在ではないかと思っています。


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