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湖畔を望む縄文の社 [歴史散策]

半年ほど前のこととなってしまいましたが、今年の4月、何度もその近くを通りながら、機会があれば一度ゆっくりと訪れたい思いながら、なかなか行けなかった場所、その場所にやっとのことで念願叶い訪れることができたのですが。

その場所は、長野県にある諏訪湖のほとりに4つの社が持つ諏訪大社。

7年に一度、山中から切り出した樅のご神木を、諏訪湖半近くにある4つの社に氏子達の手によって曳行し、建て替えを行う祭り、日本奇祭の一つである御柱祭で有名なこの神社。

特に2ヶ月半の長きに渡り行われるのこの祭りの中のハイライト、傾斜約30度、距離80mの急な斜面を氏子達をメド梃子に乗せたまま駆け落す勇壮な木落しの行事は、他に類を見ることのできない命をかけた信仰心の凄まじさを感じさせるもの。

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そうしたこの祭りの勇猛さもさることながら、私がこの社に興味を持ったのは、その祭りの中に潜むどこか原始的な神への思い、そこから日本人の心の故郷ともいえる縄文の心を感じたからでした。

そして、そこに祭られる神の謎。
戦に負けたという伝承を持ちながら、長きに渡り軍神として崇められてきた、その疑問に対する答えを見つけるため、いつかはその地へ足運びたいと思うようになってしまっていたのでした。

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その神の名はタケミナタノカミ(建御名方神 )。

どうやら、今はゲームキャラで名を知られるようになったタケミナタノカミですが、この神、あの大和朝廷が誕生する以前、出雲の国を中心に日本を治めたと言われる大国主命の二番目の息子神なのです。

そのタケミナタが登場するお話が載せられたのが、日本最古の歴史書の一つ「古事記」の中の天皇家の始祖アマテラスオオミカミの子孫に日本の国の統治を譲ることとなったお話が伝えられる「出雲の国譲り神話」。

ちょっとそのお話、どんなお話なのか、まずはそのあらすじをご紹介することにしたいと思います。


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江戸城で出会った早春の装い   [歴史散策]

3月になりました。
関東でも先日、春一番の嵐が吹き荒れ、ここのところ暖かい日が戻って来たとはいうものの、まだまだ三寒四温の安定しない天気が続く毎日。

そうなっって来ると、家の中に籠ってばかりではいられがない。
外には、この季節でなければの何かがあるに違いないということで、出掛けたのが皇居東御苑。

皇居とは、「またえらい場所に行きますね。」、と言われそうですが、この場所、天皇陛下の住んでいる吹上御所とは堀を隔てて対岸にある普段より一般に公開されている場所。

この御苑、元は徳川将軍の住まいや大奥の住んでいた江戸城の中心部、本丸と二の丸、三の丸のあったところなのです。

今回この場所を訪れたのは、昨年夏の学生時代の友人らとの久々の集まり(http://hmoyaji.blog.so-net.ne.jp/2012-09-22)、その時また半年後に再会しようとの約束の会の開催にあたり何か企画を考えて欲しいとの先輩幹事のSOSのメール。
やはり今回も企画は自分かと、いろいろ考えあぐねた末、今から準備をすると、ちょうどお花見の時期の開催となるなと思い、ならば九段坂付近から江戸城北の丸そして皇居東御苑あたりがどうだろうかと下見がてらに出掛けたのがこの場所。


この日は、夜の部の懇親会の前に、花見をしてからという企画で、東京メトロ九段下駅より、田安門を通り北の丸公園に入り、公園内を通り抜け江戸城本丸前に到るルートで御苑に向かい、その中を散策するルートを歩いてみることにしたのです。


御苑の入り口に一つの北詰橋門に到着、そこから御苑内に入ると、目の前を覆うように大きく聳え立っているものがこちら。
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石垣の高さ20mの、巨大な江戸城天守台。
徳川家康が関ヶ原の戦いで天下を制した後に1603年から始められたというこの城の天下普請。
その竣工の時には、この上に5層の天守閣が建っていたというのですが..........。

その後、秀忠、家光の時代にさらに城の整備が進み、その頃(1638年頃)の江戸城はこんな風な姿だったのだのとか。
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その天守閣が姿を消してしまったのは、1657年 4代将軍家綱の時に起きた明暦江戸大火(振袖火事)。
江戸の町じゅうを焼付くし3~10万人の犠牲者を出したと言われるその大火災により、この天守閣も消失してしまったというのです。

その後、天守閣の再建に向けての計画がなされたのですが、その計画を差し止めたのが、3代将軍家光の異母弟で4代将軍家綱の輔佐役で大成参与の地位にあった、保科正之。
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後の幕末に、幕府を守ろうと奔走した会津松平家の祖でもあるこの人物、現代の世に残る多くの業績を残しているのですが、この時も、天守など遠くを見るだけのもので無用の長物、町の復興を優先し無駄な出費は避けるべしと主張して、天守閣の再建をやめさせ、以後、天守閣は再建されることなかったのです。

そしてその結果、行われた町の復興に際しては、その防災性を高めるための施策が行われ、とくに橋がなかったため逃げ場を失った人の多くが犠牲となった隅田川には、両国橋を架けるなどをして、これが後に防災のみならず、その後の江戸の町の拡大発展につながっていく礎となっていくのです。

こうして見ると、この殺風景なこの天守台も、現代の大都会東京を作ったそのモニュメントのように見えてくる、そしてその、大英断を下した保科正之という政治家の心構えを、今の政治家にもしっかりと学んでもらいものだ思ってしまうのでした。



そんなことを考えながらさらにその奥へと足を進めると、その天守台の隣奥、そこのあったのがあの有名な大奥。
そこには将軍の世継ぎ巡って最盛時には3千人にも女性が暮らしたという、今は広大な芝生の園となったその場所が見えてきます。
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芝生の廻り数本の桜の木があって、お花見の時期は、なんとも心地よさげ感じです。
そんなお花見時期の様子を思い浮かべながらその周辺を歩き、そこで近くにあった場内案内板をみると、一足早く春の訪れを感じさせるような場所があるの見つけたのです。

それは、梅林坂。

大奥から、その大奥の通用門となっていた平川門に向う途中、本丸から二の丸に下る坂の名前なのですが、
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平川門

その春の密かな訪れに出会えそうなその坂の名前に惹かれ、その坂を下って行くと、見えて来たのは期待通りのこんな風景。
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2月の中頃、訪れた松戸の水戸徳川家の別邸 戸定邸(とじょうてい;記事はこちらhttp://hmoyaji.blog.so-net.ne.jp/2013-02-16)で見た、梅の花の小さなつぼみ、時期的にもう開花しているのではと思った通り、見事に花を咲かしていました。
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そんな江戸城の風景、写真だけで語りつくせない。
もう少しその情景を味わってもらいたい、ということでこんな梅の花が咲く江戸城、こんなPVにまとめてみました。



この日は午前中雨が降る寒い日であったこともあり訪れる人も疎らだったのですが、それでもこの花の周りには、人が寄って来ています。
その様子を見ていると、その昔も大奥から篤姫や皇女和宮もこの場所を訪れて、にわかな春の訪れに胸を踊らせていた、そんな風景が瞼の裏に浮かんでくるのでした。

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ちょと下見のつもりが、一足早い花違いのお花見気分。
やはり将軍の暮らした江戸城跡、訪れてみればいろいろな思いが巡ってきます。
そうしたことで、江戸の歴史に思いを寄せながらのお花見も悪くはないと、自分なりにその企画に納得。
桜の季節に行う旧友たちの再会の催し、多くの人が参加してくれるといいなと思っています。
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今も、江戸庶民の賑わいが宿る場所;本所・深川その3 いざ討入りの場所(吉良邸)へ [歴史散策]

は、門前仲町駅から、ふと思いたった吉良邸への道中で見つけた、馬琴の誕生地、そして松平定信公の墓所、そこに寄り道しているうちに時間を忘れ思いのほか長居をしてしまいましたが、今回はいよいよ、目指す吉良邸に向かってゴー!!


ところが、この吉良邸の場所、実は1年半前にJR両国駅前で見た案内地図の記憶しかないのです。

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覚えているのは、JR総武線の線路を挟み両国国技館の反対側を走っている国道14号線を渡って、ちょっと奥まったところにある公園がその所在地ということぐらい。

他には住所もわからず地図もなし。
そこで、路上にある街路地図見つけたら、その地図から公園を見つけ出し軒並み訪れ探すしかあるまいと覚悟を決めることに、

まずは、現在いる清澄通りの東側では両国駅からちょっと離れている、ということでとりあえず西向かって出発することにしたのです。

それにしても、討入り際して用意周到な準備をしてその目的に挑んだ大石内蔵助、それに対しその同じ場所へ向かう我身の余りにも無計画な様、ちょっといただけませんね。[いい気分(温泉)]









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今も、江戸庶民の賑わいが宿る場所;本所・深川その2:下町に残る江戸時代人の足跡 [歴史散策]

今も、江戸庶民の賑わいが宿る場所;本所・深川その1では、大相撲発祥の地 富岡八幡宮を訪ねましたが、今回は、門前仲町駅前から永代通りを北に折れ、両国方面へ。

なぜ両国方面へとお思いでしょうが、実は門前仲町駅から永代通りを800m西に歩いた所にある永代橋、そのたもとにある味噌製造会社の社屋の前にあった、とある碑のことを思い出したからなのです。

その碑、なんの碑かといいますと、忠臣蔵で有名な赤穂浪士、その赤穂浪士が吉良邸討ち入り後、その当時からあったそのお味噌の会社の店先で、甘酒粥を振舞われ休息した場所の碑なのです。

その会社のホーム・ページはこちら→http://www.chikuma-tokyo.co.jp/
(ホーム・ページの下欄にある≪忠臣蔵とちくま≫をクリックすると、その由来が出て来ます。)


確か、赤穂浪士の討ち入った吉良邸は、確か両国近辺だったはず。
今、いる場所からさほど遠くはない。
討ち入りの後、赤穂浪士の歩いたであろう道程を逆にたどってみるのも面白いと思い、進路を北にとることにしたのでした。



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今も、江戸庶民の賑わいが宿る場所;本所・深川その1 大相撲発祥の地 [歴史散策]

Mさんのブログを訪れた時に見た、当麻蹴速(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)による相撲の起源の話。

この記事を読んで、そういえば相撲の始まりは遥か昔、大和の国のことであったけど、現代の大相撲の発祥地は江戸。
その地、今まで当たり前のように何度も訪れたことがあるのに、通り過ぎただけ。
やはり、ちゃんと見ておきたいと思い、これを機にその地を訪れてみることにしたのです。


東京メトロ東西線に乗り、 門前仲町で下車、地上に出で永代通りを西に5分ほど歩くと左側に見えて来たのがこの鳥居。
大相撲発祥の地、富岡八幡宮の鳥居です。

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源頼朝が、神奈川県横浜市金沢区に勧請した富岡八幡宮を、江戸時代初期この地に分祀したのがこの社。
別名 深川八幡の名で永き渡り江戸の人達に親しまれ続けて来た神社なのです。

さて、大相撲の発祥地といわれるこの神社と、そのかかわり。
どんな風に現れているのか。
早速、境内に足を踏み入れてみると。

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古代の里に訪れた春の気配 [歴史散策]

3月11日の日曜日は、久々に甲府への出張。

この日は、天気も良く暖かいとの予報に、途中雪をかぶった富士山が綺麗に見えるかも、という期待を胸に中央道を下ったのですが、上野原近辺に来ると低くたれ込めた雲が空あたり一面に広がりだしてくる始末でその期待はもろくもうち崩れ。

そのうえ、地面には白いものが見えてくる。
昨日の平地の雨、山沿いでは雪だったのだ。

周辺の山もこんな風に薄化粧をして。

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この調子では今日の仕事、うまく進まないのではと不安感に襲われつつ、さらに車を進めるとことにしたのでしたが。



PS
この記事の最後に音楽ビデオ・クリップを追加いましたので、是非ともご覧下さい。





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今も、江戸庶民の賑わいが宿る場所;神田明神その2 [歴史散策]

前回は、現在の神田明神の様子を書かせていただきましたが、今回はその由緒ついて書いて行きたいと思います。

長きにわたり多くの江戸っ子の信仰を集めてきたこの神社,ところが最初から現在の場所にあったわけではないのです。

社伝によると、この神社の創建は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村に祖神を祀ったのが、この神社の始まりとあります。

そこで今回は、この神田明神があった場所を訪ねてみることにしました。

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その場所、大企業の本社ビルが立ち並ぶオフィス街にの一角、現在の東京都大手町にあるのです。

この写真の左側にある大きなビル、その左横に見えるこんもりと木の茂った場所、そこが、この神田明神の発祥地なのです。

道路渡って、その近くまで足を進めてみましょう。

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入口の前までくると'将門塚”の案内板があり、中を見ると

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将門塚と書いたの石柱があり、その奥に神田明神旧蹟地と書いた白い旗が見えます。
確かにこの場所が神田明神のあった場所なのですが、将門塚の石柱があるのは何故なのでしょう。



そこで、神田明神に祀られている神様を見てみると、

一ノ宮:大己貴命(だいこく様)
二ノ宮:少彦名命(えびす様)
三ノ宮:平将門神(まさかど様)

とあります。

そして、三ノ宮に祀られている神様に塚の名前の”将門”の文字が見え、この塚と何か関係がありそうです。そこで、まずは、この三柱の神様の素性を見てみることにしましょう。

一ノ宮の大己貴命は、出雲の国譲り神話や因幡の白兎で有名な神様、大国主命のこと。
二ノ宮:少彦名命は、お伽噺の一寸法師の元となった小さな神様で、大国主命の国造りを助けた神様。
共にこの神社の氏子である出雲氏との関係が、深い神様です。
ということで出雲氏の祀るこの神社に名があるのは当然なのですが.......。

ところが、三ノ宮の平将門神様、先の二柱の神様とは名前からして全く違う、出雲氏との関係もない神様だというのです。

それでは、どうしてこの神社に祀られているのか、さらに将門さまについて調べてみると.........、
この神様、歴史上実在した人物だということがわかります。


実は、この平将門神さま、平安時代、桓武天皇の孫で臣籍に降下し平氏の姓を名乗って京より東国下り、その地に地盤を築いた高望王の孫にあたる人物。

その将門が歴史に名を残した背景については、以前、”ビルの前の大鳥居;築土神社”で書かしていただいたので、そこから引用させていただきますと


将門の生きた平安時代中期、京は藤原氏の全盛期。ひと握りの高級公卿が栄華を誇り、高級公卿以外の人は人間と見られていなかった。特に関東以北は蛮人の世界と見られていた時代。

 そうした中、京での栄達の道を失った者達は地方に落ち戦いつつ土地を開拓し、次第に力を蓄え豪族化していく。

―方、京の公卿達は彼らを蔑みながら、自分達の栄華、快楽のため過酷な要求を突き付けてくる、そうした中で、その力をつけて来た新興勢力の頭領として初めて反旗を翻したのがこの将門だった。

そして、この戦いは、朝廷の手によって利用された反抗勢力より鎮圧されるも、その100年余り後、鎌倉幕府の成立という武士に時代の到来を見るに、後の世の関東の人々は、将門を時代の扉を開けさしめた英雄として語り継ぎ崇めていった



将門は圧政に苦しむ東国の人々の先頭に立ち朝廷に反旗を翻し、討ち取られたもののその後も東国の人々に慕われ続けた人物というわけですが、将門がこの乱を起こしたのは、天慶3年(940年)のこと。
平将門の乱として歴史の教科書にも載っていたので、この名前には御記憶にあるのではないかと思います。

そしてその戦いの後、討ち取られれた将門の首は、京都に運ばれ、そこでさらされることになったのです。

ところがこの首、さらされて3日後京都から忽然と姿を消してしまいます。
伝説では、首が失われた体を探して東の空に飛んで行ったとなっていますが、おそらく将門を慕うものの手によりひそかに持ち去られてしまったようなのです。

さらに伝説ではこの飛び去った首が、力つきて落ちたのが、この将門塚のある場所なのだと伝えています。

そして現在この場所の奥には、将門の首塚というこんな塚が建っていて、今も多くの人が供養に訪れています。

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これが将門と将門塚の由来ですが、しかし将門は、最初から神様であったわけではないのです。
それどころか、初めは、この地で怨霊となり人々を苦しめる存在だったのです。


その将門の怨霊が鎮められ神として祀られるようになるのは、将門の死後250年余りが過ぎた徳治2年(1307年)のこと。

時宗の開祖、一遍上人の弟子の真教上人の手によってでした。

上人は、将門に蓮阿弥陀仏という法号を与え、塚に石塔を建て近くにあった日輪寺に供養するともに、御霊をこの地にあった神田明神に合わせ祀ることで、将門の霊を鎮め守護神としての役割を与えたのでした。


こうして、神田明神に祀られる神となった将門は、その後多くの関東武士の崇敬を集めるようになります。
その中には、この地を拠点とした江戸氏、戦国時代関八州を支配した、後北条氏の2代目当主の北条氏綱の名が見えます。

そして、この神田明神を出雲氏の氏神から江戸総鎮守として広い信仰を集めるきかっけを作った人物が、将門を祀るようになります。

その人の名は、徳川家康。

家康は、歴史的に名高い関ヶ原の戦いに赴く際、この将門神に戦勝祈願し出陣していたのです。

そしてその戦いに勝利を収めた後、天下収めた家康は江戸城の拡張と町の整備を本格的に開始します。
その城の拡張に伴い、社地が城の敷地にかかることとなったため、将門をもって江戸城北東鬼門封じとするよう、元和2年(1616年)社を現在の場所に移転、神田明神に江戸の町の総鎮護を祈願し崇敬するようにしたのでした。

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そこで、この首塚から100mほど歩き江戸城内堀に行くことに。
堀のすぐ先に建っている大手門を眺めていると、そこに江戸普請の往時の息吹を感じ、眼前に出現した武士の世の到来を、満足げに見守っている将門の姿があるような、そうした様子が浮かんで来るのでした。


そしてこの首塚、明治以後、関東大震災の後、太平洋戦争敗戦後GHQによって、2度ほど撤去の憂き目を見たのですが、都度、工事中事故による怪我人が出たり、関係者が死亡するなど災厄が発生し中止となっているのです。

それは、今だ衰えぬ将門の怨霊パワーによるものだったといわれ、それがビル街の真ん中に塚が大切に保存されることになっている要因なのですが、今も脈々と変貌し続ける東京の姿を見ていると、江戸の守護神将門のそうした強烈なパワーが、今もこの町を覆い動かし続けている、

将門塚、それはそんな思い抱かせる、不思議な都市空間であるように思われたのでした。


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今も、江戸庶民の賑わいが宿る場所;神田明神その1 [歴史散策]

以前、何かで読んだのですが、中国や韓国の方が日本に訪れて、薄気味悪さを覚える場所ということで神社があげられていました。

確かに神社と言えば昼なお暗い鬱蒼とした森に包まれていて、我々日本人でもその境内に入ると、そこに何かが宿っているような気配を感じるものです。

そもそも神社というもの、森林という自然の恵みを背景に、この地に営々と生活を築いてきた森林の民である日本人にとって、自然の精霊達への感謝と願いの場であるわけで、生活風土の全く異なった、大陸の大地を自ら開拓し文明を築いてきた草原の民である中国や韓国の方々には、その意味が分からないのは仕方がないことと思うのですが、

そこで今日の行き先は、つきものの森のない、そして海外の人にも信仰の躍動が伝えられるような、妙に明るい活気がある神社。
そこの明るい活気を、もらいたくて、そのお社を訪ねてみることにしました。

JR中央線の御茶ノ水駅で降り、聖橋口をでて徒歩10分の所にそのお社はあります。
神社の参道の近く、その鳥居の横には、お正月の初詣のTV番組によく出てくる甘酒屋さんが。

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さて、この看板を見れば、これから行こうとしている神社、もう分かったとういう人多いでしょうね。

甘酒茶屋の天野さん、といえばこれから行くお社は、当然神田明神となりますよね。

このお店女性の方には人気があるようで、この日も参拝を済ませたのか?奥様連が数組いそいそとこのお店に入って行く姿を見かけました。

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こんなメニューが出て来るのだそうですが、甘いもの苦手の私はここはパスというか、老年男が一人で入るには、ちょっと気が引けるので。[がく~(落胆した顔)]

その天野屋さんの角を曲がると、すぐ鳥居が、そして土産物屋の並ぶ短い参道の先には随神門がたっています。


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随神門とは、神域に邪悪なものが入り来るのを防ぐ御門の神をまつる門のことを言いますが、神田明神も御門は。1976年(昭和51年)昭和天皇在位50年を記念して関東大震災で焼失以来再建されたもの。
1998年(平成10年)に塗り替えられ鮮やかな朱色に染まっています。

この随神門をくぐると、正面の社殿に行きあたります。
鬱蒼とした森もなく、ずいぶん明るい印象ですよね。[わーい(嬉しい顔)]

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この社殿も、関東大震災で焼失後、1934年再建に再建されたもの。
当時画期的であった鉄骨鉄筋コンクリート造の建物で、1945年(昭和20年)の東京大空襲にも耐えて来た建物なのです。

鉄骨鉄筋コンクリート造の建物というと、「なんだ、有難味がないな」などと思われるかもしれませんが、
現在のようにコンクリートが、生コンクリート工場で生産されミキサー車で大量迅速に供給されるようになったのは、1949年(昭和24年)以降のこと。
当時は、樽に詰められたセメントと砂・砂利を現場で人間が手作業で練り込んで作っていたのです。
さらに、そのコンクリートで木造建築の質感のある建物を手間をかけ作ったことを考えると、その造営が関東大震災復興のシンボルとして行われた、かなりの規模の大事業だったことが分かるのではないかと思います。

その社殿で参拝を済ませ周りを見ると、社殿右側に岩で作られた小山が目に入って来ます。

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その小山の頂上には、雄々しく立ちはだかる狛犬の姿があります。
近くに寄ってよく見ると、流れ落ちる水の下には、上を向き何やら助けを呼んでいるかの様子の小さな狛犬がいます。

さらによく見ると、雄々しく立ちはだかる狛犬の左下には。黒ずんで唯の岩に見えるのですけど、その小さな狛犬を心配そうに見つめる狛犬の姿があります。

ああ、これは親子の狛犬なのだと思って説明書きを見ると、石獅子とあり千代田区の有形民族文化財とありまます。

この獅子山、江戸時代終末期の1862年(文久2年)に両替屋仲間が奉納した獅子の子落しの石像で、関東大震災で獅子山は崩壊するも親獅子二頭は保存され、2000年(平成3年)の獅子山再建により往時の姿に戻ったものなのだそうです。

その獅子山を見て、次に社殿右横に足を進めることに。
すると、そこには一風変わった石碑があるのが目につきます。

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一体何の石碑でしょうか。
もう少し近づいてみると。

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碑の台座の部分には、寛永通宝の文字が刻まれています。
この碑の正面先の向こうは、崖になっていてその下には街並みが広がっています。
その街並みにある道路の表示板。


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寛永通宝、明神下と言えばもうお分かりでしょう。

そうです、野村胡堂の小説「銭形平次捕物控」の主人公銭形平次の石碑なのです。
中央の大きな碑が平次親分で、その右横の小さな石碑が子分の八五郎なのだそうです。

この碑は、1970年(昭和45年)、平次の家が明神下の台所町という設定だったことから、作家の野村胡堂と当時のTV関係者有志によて建立されたもの。

現在の明神下の街並みにも足を向けてみると。


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どこからか八五郎が飛び出して来て、平次親分の投げ銭飛んで来そうな気分になって来ます。



平次親分の碑を後にして、社殿裏へ回ってみることに。
そこからは、この神社の摂末社群が並んでいるのをみることができます。

ところがこの摂末社、他の神社と異なり、神田・日本橋・秋葉原・大手・丸の内・旧神田市場(大田市場)・築地魚河岸市場等、東京108の町を氏子従える江戸総鎮守 神田明神らしく、江戸と東京の庶民の生活や文化が、伝わって来るような気さえする場所なのです。

寛政7年(1795年)、籠職人らによって創建された籠祖神社や、
日本橋魚河岸の守護神として創建され、元和年間に神田明神境内に遷座した、日本橋魚河岸水神社のような江戸の生活を担う商工業者の氏神を祀っているものや、
また大伝馬町八雲神社の前にある、1839年(天保10年)江戸の反物の流通を一手に扱う、太物問屋仲間が寄進した鉄製天水桶など、
そこには、人々の日常生活の中の信仰の様子を垣間見たような懐かしさを感じ、いつの間にか同化してしまいそうな雰囲気に漂っているように思えてくるのでした。


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こうして境内を歩いてみると、この社、現在もこの東京いう大都会の巨大な気を放ちつつ、そこに暮らす多くの人々の喜怒哀楽を見守り司っている、そんな躍動感に満ちた活力が強く伝わってくるのを感じるのでした。                                                              続く


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Baby Steam Locomotive [歴史散策]

毎日通る、津田沼の町。

そこに当たり前のようにあるのだけど、忘れさられたような存在の物があるのです。

新京成電鉄の新津田沼駅の向かいにある、津田沼1丁目公園にひっそりとあるもの。

それは、この蒸気機関車なのです。

       

なんだ、ちょと古い蒸気機関車じゃないかと思われれるでしょうが、この機関車、ちょっと違っているのです。

それは、レールの幅。
その幅が僅か610mmしかないのです。

通常レールの幅は、狭軌と言われるJRの在来線の場合で1,067㎜、新幹線などに使われている標準軌道では1,435mmあるのです。


そしてそのレール走るこの機関車の重量は、僅か12,5t、いかに小さい機関車か、これでおわかりかと思います。

その小さな機関車が何故ここに??


実はこの機関車1942年から1944年に製造されたK2型というサイドタンク式の機関車で、当時、現在のJR津田沼駅南口前の千葉工業大学のあたりにあった、旧陸軍鉄道第二連隊が演習用に使用していたものなのです。

       

そして、その演習用の線路、今も現役で活躍しているのです。
といっても、軍事用でありませんよ。

       

この機関車のある津田沼一丁目公園の向かい側を走る新京成電鉄。
この新京成電車の走る津田沼・松戸間の線路が、この旧陸軍松戸演習線の現在の姿なのです。

この新京成線、2km進むのに10kmの迂回の場所があるという曲がりくねった路線で、津田沼・松戸間、直線では16kmのところ、総延長26.5km長さにも達してしまっているのです

これも、当時陸軍の演習のために合わせて、カーブ等訓練の場所が多く作られたからなのだそうで、今では想像することができないほどの荒野が広がっていた、この地の当時の様子が偲ばれます 。



こうした戦争の影を引きづったK2型機関車、戦争が終結するとその施設を民間に払い下げることになり、それを手を上げたのが西武鉄道と京成電鉄でした。

その結果は、路線は地元を走る京成電鉄が、機関車などの車両は西武鉄道に引き取られることになり、K2型機関車は住みなれた千葉を離れ、埼玉県所沢へ移り住むこととなったのです。

       

その後このK2型機関車は、当時西武鉄道が運営していたユネスコ村への軽便鉄道として子供たちを乗せ、その余生を送っていたのですが、20年ほど前のユネスコ村廃村に伴い、鉄道連隊のあった習志野市に引き取られ、若き日々、動乱の中を過ごしたこの地に帰って来たのだとか。


その姿とユネスコ村で働いていたとう話から、私も幼稚園の頃の遠足で、このK2機関車にに引かれた客車に乗りユネスコ村に向かったかすか思い出、小さいのに妙に迫力のある一丁前の音を発し走る姿を思い出し、その再会になんとも言えない郷愁を感じてしまったのでした。

       
               新京成電鉄 最新鋭車両N800形


幕末を切り開いた砲身 [歴史散策]

先日、新年の挨拶廻りに行こうと事務所を出て、その前に行き先の途中にある靖国神社に立寄ってみました。

折角来たのだからと、参拝をし破魔矢を買ったところで、そういえば子供時代に来た時、ここで昔の大砲を見たな、あれはいつの時代ものだったのだろうかと思い探してみることにしたのです。

そして、その場所に行ってみることに。
そこには、周りの風景はだいぶ変っていたけど、昔と同じように古い大砲が二門、変わらぬ姿で置かれていたのでした。

そして、この大砲の説明を見ると

       

青銅80ポンド陸用加農砲

この砲は、安政元年(1854)湯島馬場大筒鋳立場で鋳造、品川台場に据付けられていたものである。

口径250mm 全長3830mm



そしてもう一門は、

       

青銅150ポンド陸用加農砲

この砲は、嘉永2年(1849)、薩摩藩で鋳造、天保山砲台に据付けられていたもので、明治初年大阪砲兵工廠が砲身に施條を施した。

口径290mm 全長4120mm

そこで、二門とも幕末のものと知ったのです。

そして、この二門が完成した時、それは日本の歴史の中の大きなターニング・ポイントであったことだと気付き、静かに境内に骨を休めているその歴史的モニュメントに、一種の感慨を覚えたのでした。



その歴史とは、

最初の一門の完成した安政元年とは、あの黒船が2度目の来航を果たした直後のこと。

1度目の来航の後、時の老中 阿部正弘が江戸防衛のため、品川沖に築かせた人工島、今やイベント・ショッピングタウンとなってしまったお台場に設置されていたものなのです。



そしてもう一門は、

この砲の設置されていた天保山砲台は、鹿児島市内の錦江湾(鹿児島湾)を臨む場所にあったもの、現在も、その場所に行くと砲台跡が残っています。

       

この天保山という場所、黒船来航後、国防の強化の必要性を感じた当時の薩摩藩主 島津斉彬が、自藩の軍隊の洋式化を推し進め、藩主自らが赴き、その訓練を行っていた場所なのです。

そして、1862年、神奈川県の生麦で島津久光の大名行列の前を通り過ぎようとした騎馬の英国人を殺傷した事件、いわゆる生麦事件から端を発した1863年の英国軍艦の鹿児島攻撃、現在、薩英戦争と呼ばれている戦いで、英国軍艦に向けその第1弾を放ったがこの天保山砲台だったのです。

その戦いは、英国側の油断と根拠ない自信の隙をついた、薩摩側の高い戦闘力で、緒戦では英国艦隊に、大破1隻、中破2隻の損害を与えるも、英国側が体勢を建て直しアームストロング砲の攻撃が有効になると、薩摩側の砲台はやがて沈黙させられ、城内の櫓や武家屋敷、民家の多くが焼失するという大きな物的損害を蒙る結果となったのです。

この戦い以後、西欧の高度な軍事力を知った薩摩藩は、英国に接近、幕末の日本をリードしていくことになったのですが、その出会いを戦った大砲が、ここにひっそりと残されていたことになんともいえない感動を覚えました。



さらにあたりを見回すと、これら砲身の横にある建物、遊就館の中にあったのは、

       

あの名高い零式艦上戦闘機。

幕末、西欧列強の侵略から国を守ろうと狂気した日本の近代化黎明期の兵器と、昭和、国を守るという理念を引きづりつつ、慢心した狂気で国を破滅に導いた時代の兵器が隣り合わせにある。

そこに、なんとも不思議な巡り合わせを感じたものでした。
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